1942-01-01から1年間の記事一覧

海軍航空隊整備兵の受難

昭和17年12月下旬の夕刻,今晩海軍水上機がレガタに着水するという。何かニュースでも聞かれると思い,午前0時半頃基地砂浜着水場へ行って見た。やがて爆音と共に一機飛来着水し,整備兵の青発光信号で近づいてくる。飛行機の安定と搭乗員を背負うため,整備…

レガタ基地での魚獲り

昭和17年12月下旬晴れわたった日である。空襲さえなければ本当にのどかな日である。じっとしているのももどかしく「魚でも獲るか」と安易な気持ちで員数外の手榴弾1個を手にして砂浜に出る。本当に別荘地を偲ばせる風景である。岸辺を注意し乍ら歩いてゆく。…

レガタ一番の犠牲者 

或日「中隊機関永石軍曹の許へ各分隊5名使役を出せ」とのこと。他の4名と共に軍曹の所に集合した。その時小銃3発。空襲だ。皆防空壕へ飛び込む。30名以上の使役兵と26名の中隊機関兵が居り,防空壕は満杯となる。壕の中は暑いので,先に入った者はお互いに肘…

昭和17年12月下旬 羊羹紛失事件

12月下旬のこと、歩兵大隊上陸の為、分隊より使役3名当て出すことになった。何か良い情報でもあればと思い、進んで使役を申し出る。夜一時前大発が来たので集合点呼を受け、乗艇準備して砂浜に待つ。午前一時過ぎ接近してくる駆逐艦らしきものが見える。我々…

昭和17年11月下旬

歩兵1個中隊が上陸してきた。島原出身者が居ると聞き、尋ねた所島原湊出身で、小生の家もよく知っていた。話によれば「ミッドウェー海戦で敗れ、上陸地点まで行けず、トラック島に引き返していた。ミッドウェーで勝っていればハワイ近くの島に敵前上陸の予定…

昭和17年10月15日

ボーゲンビル島エレベンタ基地に辿りついた佐渡丸は、今まで甲板の一部しか見られず被害もよくわからなかったが、今朝見ると船長室船橋が吹き飛び血があちらこちらに付着している。前見張りおの伝令で、船尾操舵室で運航してきたとのこと。サンタイザベラ島…

昭和17年10月14日

早朝,高射砲隊に島原港出身者が居ると戦友より聞き,船首の高射砲砲座に行って見る。(当時佐渡丸は船首,船尾に高射砲3門,計6門装備)観測下士官で一度佐渡丸でガダル往復したと聞き,参考までに戦況を教えて貰う。その弟さんは第3小学校で学校対抗の喧嘩…

昭和17年10月

この最大激戦地ガダルカナルへ独山10連隊も全力をあげ参加することになった。 吾々第五中隊は広東出発,黄浦,台湾高雄に寄港,下船は禁止されていたが,色々な話が出てくる。やれ豪州行きだ,否ハワイだ。先に行った日本兵は素足で腹を空かし,ジャングル内…

セ号第二次撤収作戦について

「ソロモン海的中突破」より転載 第二次出動をしぶる艦隊司令部 第一次作戦の経過を見ると,既に吾が方の撤収の企画が米軍側に探知されて居る様に思われ,第8艦隊司令長官より「第二次機動決行延期」の電報命令が,スンビ基地舟艇部隊芳村指揮官あてにとどい…

 「ソロモン海的中突破」より引用。

次に「ソロモン海的中突破」より引用する。 機動舟艇部隊の計画については別表の通り計画され,吾々山砲は第2次転進と決定された。コロンバンガラ島大発進撃要領についても別表の通り,船舶工兵第2連隊,海軍舟艇部隊,船舶工兵第3連隊でそれぞれ作戦が練ら…

コロンバンガラ島へ

だが、今日の砲撃はニュージョージアムンダ飛行場に対する、日本軍の最後の砲撃であったと思う。 翌日夕方、山砲は破壊されたものと見られ、アランデルの海岸に埋設処置することになる。昭和15年10月仏印国境で受け継ぎ以後3年間、演習、射撃競技会、香港作…

アランデル島へ

組立式渡河用舟艇で日本の櫂で漕ぐ船である。砲身を二人で担いだまま乗船する。歩兵が乗ってきたので大声で「歩兵の軍旗と同じ砲身を積み込んだ。歩兵は特科隊を警備するのが当然だ。山砲早く積み込みするんだ」と叫ぶ。歩兵の将校が「では次に乗ろう」言っ…

ムンダ島

翌朝未だ薄暗い頃、吾々が通過してきた道を人の来る気配がした。皆警戒し早い者は銃を手にしている。が日本語で話し合っている様子に一応安心する。歩兵一分隊10名位が皆一様に雨外被を着け鉄棒を被り、これも銃を両手で構えてきた。 T崎隊長が「どちらから…

昭和17年4月

深圳引き揚げ,広東に向かう。深圳の駅近くで菓子屋の職人と娘が日の丸の旗を振り「サイデイガイ サイナラ」と呼んでくれた。職人は菓子を袋に土産として持ってきてくれた。 深圳出発の翌日,共産軍の部落通過中小銃弾が撃ち込まれる。中隊は低い反対側田圃…

昭和17年2月頃

部隊演習で九竜で一番高い山に登る。青い海に島々のきれいな景色である。出てこなけりゃ良いのに島影から漁船が一隻現れる。隊長は突然「目標海上に浮かぶ漁船三発4000米高低0.7瞬発信管続いて撃て」と命を発した。照準はしたものの中国人が乗っているのだ。…

昭和17年2月上旬

中隊分哨勤務の兵,仙台市出身のW辺軍曹と共に飯盒を両手に下げ,食事を運んだことがある。 香港軍政府は,日中事変以来中国各地から香港に避難した住民を,夫夫の郷里に帰る指導を行った。この狭い島が百万以上の人口にふくれあがり,それぞれの生活もおび…

昭和17年1月中旬

一月中旬頃である。中隊命令で「香港で集めた時計その他貴金属類は総て,半時間後迄に中隊前に持ってくること,実行しなかった者は後日罰を受けても知らない」とのことで,中隊前に竹篭が用意された。半時間後行って見ると竹篭は一杯になっていた。間もなく…

昭和17年元旦

兵舎内,中隊事務所前に今までの戦勝ニュースが張り出される。ハワイ空襲・馬来半島沖英戦艦撃沈・南方の島占領等うれしいニュースばかりだ。この頃日本新興キネマ女優黒田紀代一行が「香港陥落の日」の撮影に来る。 「要塞より手を挙げて出てくる英印軍・部…