昭和17年2月上旬

 中隊分哨勤務の兵,仙台市出身のW辺軍曹と共に飯盒を両手に下げ,食事を運んだことがある。
 香港軍政府は,日中事変以来中国各地から香港に避難した住民を,夫夫の郷里に帰る指導を行った。この狭い島が百万以上の人口にふくれあがり,それぞれの生活もおびやかされていたのである。大変なことであるが日本軍政府はその措置をとった。連日,中国難民が列を作り国境を越え,自分等の生まれ故郷へ向かっていく。郷里に帰り着くまでに金も使い果たし体も弱って,行き倒れする者も出るであろう。何を入れているのか大きな唐米袋を天秤棒で前後に担ぐ者。トランクを前後に毛布を肩に掛け,コウモリ傘を杖にして行く者等等。W辺軍曹と,この内何%が故郷に辿り着くのか,これで本当に中国に平和が訪れるのだろうか等等。術のない話をするのが関の山だった。
 分哨では難民の荷物検査である。めぼしいものは取り上げられる。これでは一体,中国民衆は日本に従いついてくるだろうか。平和までは程遠い話だとW辺軍曹も溜息をつく。
 或休日,皆と連れだって外出した。日本人の酒保である。久留米原隊時より,ゼンザイを3杯位食べないと翌日は演習に力が出ないという悪いくせがついたものだった。その日も始めにゼンザイ三杯次いでビール1本にウドン等の昼食をとる。その後は中国人の店を廻って帰営する。同日同年兵と一緒に帰営を約束したので,慰安所前の椅子に座って待っていた時である。17,18才くらいの姑娘が「シーサンサイコサイコスンダカ」と尋ねたので「ブシンブシン」と伝えると「シーサンキナチンユウカ」と言う。「どうする」と聞き返したら,その娘はズボンを巻き上げて見せた。脛に潰瘍が出来て治療は全然していない。「帰れば少しあるよ」と言うと欲しそうな顔をした。「営門まで来い」というと嬉しそうな顔をする。用事が済んだ兵と一緒に帰ったが,姑娘もついてくる。部屋でキナチンを紙に包み残飯を集めて袋に入れ,大隊の残飯捨て場へ行くと柵の外で待っていた。
 次の休日亦慰安所前の椅子に掛けていると,その娘が来て「お礼をしたいから来てくれ」と言う。石畳の細い道を半ば警戒し乍らついていく。大きな門の開き戸で声を掛けると,中より職人らしい男が頭を下げて招じ入れる。其処は中国菓子製造所で出来上がった菓子を指さし,どれでも良い好きな菓子を持って行って呉という。焼きたての菓子20ケ程包んで貰う。
すると娘は「白飯おいしかった。皆に配ってやり皆喜んで居た,今日もよいか」と言う。「いいよ」と答えると又残飯置き場までついてきた。休日はよく菓子屋と残飯の行き来が続いたものである。