1943-01-01から1年間の記事一覧

昭和19年1月上旬 豚生肉の美味しさ

或日,U生,K池,M池,N田4人で分哨勤務したことがある。U生上等兵がジャングル内で豚の足跡を探し出し,此処には豚が出てくる何とか仕留めたいと言う。他の3人は立哨は自分等でやるからU生上等兵はジャングル内豚の通路に張り番をしてくれと頼み,OKとなった…

昭和19年1月1日 

元日。北の日本皇居遙拝。それぞれの故郷に向かって敬礼。お互いの健康を祝う。 昨日用意しておいた魚芋等で正月気分を出し,郷里のウマカモン自慢話。そして例によって郷土民謡,歌謡で互いに正月気分を味わう。 その後食糧事情は益々厳しくなり「働かざる…

昭和18年12月

18年12月,湾の入り口前島の警備になる。本島より2粁海峡をカヌーで渡る。歩兵の作った陣地,宿舎に山砲も分解搬送,沖に向かって砲を備える。兵員は小隊長少尉,分隊長軍曹,衛生兵。砲手はT木(佐世保),N尾(北九州),I田(柳川),S田(島原),Y田(…

ボーゲンビル島へ

ボーゲンビルのブインに上陸すると。留守隊ではドラム缶5本を並べ入浴場を作っている。中に消毒のためクレゾール液を入れてあり,傷,皮膚病のものは飛び上がるほどしみる。吾もその一人であった。 ブインに暫く駐留後,大隊はキエタ地区警備の命を受ける。…

「ソロモン海敵中突破」より

要約すれば見通しを誤った。ニュージョージア作戦の失敗後始末を,弱い舟艇部隊でケリを付けたことにもなる。更にわが撤収を逸早く察知した強大な米軍の執拗で激烈きわまる妨害を排除。二度迄コ島往復,遂に友軍12000名救出したこと,今次太平洋戦争中ただ一…

10月2日午前10時 山砲隊の情況

今晩大発が迎えに来るということで,吾等砲なき山砲隊も陣地撤収,乗艇場行き準備をする。 皆活き活きとして嬉しそうな顔である。昨夜までの半信半疑でいた海上で敵さんにやられることは頭にないようだ。大発定員80名であるが船が不足なので,40名オーバー12…

セ号第二次撤収作戦について

「ソロモン海的中突破」より転載 第二次出動をしぶる艦隊司令部 第一次作戦の経過を見ると,既に吾が方の撤収の企画が米軍側に探知されて居る様に思われ,第8艦隊司令長官より「第二次機動決行延期」の電報命令が,スンビ基地舟艇部隊芳村指揮官あてにとどい…

 「ソロモン海的中突破」より引用。

次に「ソロモン海的中突破」より引用する。 機動舟艇部隊の計画については別表の通り計画され,吾々山砲は第2次転進と決定された。コロンバンガラ島大発進撃要領についても別表の通り,船舶工兵第2連隊,海軍舟艇部隊,船舶工兵第3連隊でそれぞれ作戦が練ら…

コロンバンガラ島へ

だが、今日の砲撃はニュージョージアムンダ飛行場に対する、日本軍の最後の砲撃であったと思う。 翌日夕方、山砲は破壊されたものと見られ、アランデルの海岸に埋設処置することになる。昭和15年10月仏印国境で受け継ぎ以後3年間、演習、射撃競技会、香港作…

アランデル島へ

組立式渡河用舟艇で日本の櫂で漕ぐ船である。砲身を二人で担いだまま乗船する。歩兵が乗ってきたので大声で「歩兵の軍旗と同じ砲身を積み込んだ。歩兵は特科隊を警備するのが当然だ。山砲早く積み込みするんだ」と叫ぶ。歩兵の将校が「では次に乗ろう」言っ…

ムンダ島

翌朝未だ薄暗い頃、吾々が通過してきた道を人の来る気配がした。皆警戒し早い者は銃を手にしている。が日本語で話し合っている様子に一応安心する。歩兵一分隊10名位が皆一様に雨外被を着け鉄棒を被り、これも銃を両手で構えてきた。 T崎隊長が「どちらから…

昭和18年7月

ソロモン戦隊はガダルカナルを占領され,今又ニュージョージア島も苦戦。飛行場も完成と同時に壊滅的に叩かれ,戦況は悪化の一路をたどる。此処に来て今更出るに出られず,引くに引けない情況となっている。 大本営も半ばニュージョージアを絶望視し,第8艦…

殺気立つ歩兵部隊

同日夕刻揚陸地点へ火砲荷物その他を取りに行く。中隊の兵40名引率海岸に向かう途中,今晩ムンダへ進撃中の13連隊歩兵と出会う。全員前鉢巻きで相当殺気だった様子に見える。路上途中で引率中の兵が前鉢巻きをした歩兵曹長に突き当たる。曹長は大声で「この…

昭和18年7月上旬,ニュージョージア進撃

我々山砲5中隊も駆逐艦に乗艦。歩兵13連隊等と共に駆逐艦数隻でニュージョージアに向かう。夜の空は真っ暗闇である。コロンバンガラ島近くまで来た時待ち伏せの敵艦隊に出会う。敵は遠方より砲撃してくる。夜間の米軍砲撃は花火打ち上げを見ているようで,き…

昭和18年6月 

敵はムンダの鼻先に横たわるレンドバ島に真昼間堂々と上陸。その間ガダルカナルの飛行場から間断なく米機が飛来,海上では魚雷艇や駆逐艦が威圧し,貨物船はゆうゆうと荷揚げしておる。それに何をしているのかハッパをかけている。(後で判ったが重砲の砲座…

昭和18年4月18日,山本元帥の死

戦況が厳しくなるにつれ陸海の別なく軍司令官が視察されることになり,又当時は誰という名前の発表もなく,ただ偉い人が来島視察されると言うことであった。ジャングル内で地面も水気があるので,4,5日前から海岸より砂を運び通過される道路に一米幅くら…

昭和18年3月中旬

レガタを駆逐艦で引き揚げ,ブインのジャングル内元歩兵の宿舎に入り,次の作戦を待つ。 或風も無い静かな闇夜の事だった。就寝中ミリミリーッ,ザザーパリパリッと大音響がした。思わず跳ね起きたが闇夜でどうしようもない。椰子葉で葺いた宿舎の屋根を突き…

昭和18年3月2日(「ソロモン海敵中突破」*1より)

ムンダ・コロンバンガラ島の飛行場造成に食糧・弾薬欠乏。補給のため種子島少佐指揮の駆逐艦村雨と峯雲は2月下旬トラック島出航,3月2日朝ラバウル着。米を詰めたドラム缶を200本づつ,25mm機銃弾,缶詰など上甲板に満載,3月3日夕刻ブーゲンビル島へ向かう…

昭和18年2月1日〜2月7日

この一週間日本駆逐艦20隻ガダルカナル往復。奇跡的に1隻も損せず半死半生の12000名の生存者救出に成功。1000名の捕虜を除き23000名以上が遂に再び帰らなかった。 然し海軍航空隊は航空基地重要性を痛感。ガダルとボーゲンビルの中間にあるニュージョージア…

椰子の木(根元80cm)倒し

中隊本部へ用件で出向き午前11時頃帰る。見ると分隊全員がマラリア熱で,この暑いのに毛布を被り「寒い寒い」と言って居り,中にはうめき声も聞こえる。30米横の第一分隊宿舎では,椰子の実をグイグイ喉を鳴らせて飲んでいる。それをうらめしそうに寝ながら…

南方ならではの魚獲り

昭和18年1月中旬,佐世保出身の同年兵T木という人は,小柄ではあるが万事に器用で分隊では無くてはならぬ人だった。同君が宿舎で初年兵に手伝わせながら何かコツコツと作っていた。その後宿舎裏の海辺のジャングルへ行き,海面に突き出た木に登って行った。…

昭和18年元旦

午前10時山崎少尉の指揮で水上基地着水場砂浜に一同整列。元旦の祝辞の後北の方に向い皇居,夫々の国元へ敬礼。ソロモンの苦戦も上聞に達しねぎらいの言葉が出たと聞く。今日は敵機も静かだ。