子宮頸がんワクチンをめぐる不作為の罪

 反ワクチンに代表される「自然」が好きな人は、不作為の罪に甘いですね。ワクチンを使う被害は恐れるのに、使わない被害には無頓着なんですから。環境分野でいわれる予防原則「人為的な新技術に対しては、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を行う」も似ていますね。新技術を実施することによる被害は気にするのに、実施しないことによる被害は無視するんですよ。つまり、行動すれば防げたはずの被害なのに、何もせずに拡大させてもあまり気にしません。積極的な殺人鬼は許しがたいと感じても、溺れている人を見殺しにする消極性は仕方無いと思うところは私にもあるので、「気持ち」はわからないでもありませんが。

 結果が同じでも、直接に手を下すのと何もしないのでは、確かに印象が違いますね。自分が助けなくても誰かが助けてくれるかもしれませんからね。都会の雑踏の中で倒れている人を見て素通りする人が多いと嘆かれますが、他に誰もいない山中では助けるのが普通です。都会では、自分が助けなくても誰かが助けてくれることを期待しているんですね。ただ、その結果、誰もが遠慮してポテンヒットになって「無関心な都会人」と新聞が大騒ぎします。

 しかし、法律では実行犯も命令犯も共同正犯になることもあります。組員の暴走を止めることができたはずなのに放置した組長も罪になります。ただ、「止めることができた」と実証することが難しいため、暗黙の命令だったにもかかわらず、「子分が勝手にやった。私は知らなかった」と卑劣にも罪を逃れてきたのが現実ですが。ただ最近、その困難な実証を行い、指定暴力団工藤会」トップに死刑判決が下りました。指定暴力団のトップに死刑判決が言い渡されたのは初めてらしいです。

 また、行政の不作為の罪も厳しく問われるようになりました。不正行為を見逃すと罪になることが多くなりましたから、公務員も気楽ではありません。

 にもかかわらず、反ワクチンの不作為の罪は相変わらず放置されていますね。反ワクチン活動自体は言論に過ぎないで取り締まることはできません。ですが、行政行為は罪に問うことができるはずなんですけどね。過去には、厚労省は、効用より甚大な被害をもたらすクスリを放置して罪に問われました。その苦い経験からワクチンの使用には慎重ですが、同様に、多くの人命を救えるワクチンを使わなければ被害者が出るのですから罪になるのじゃないでしょうか。都会の雑踏の行き倒れのように厚労省の代わりに救ってくれる者はいませんからね。また例外はあるものの一般人には救助義務はありませんが、厚労省には国民の健康を守る義務があると思いますよ。ほぼ確実に発生する被害を見過ごしていいんですか。

 指定暴力団のトップを有罪にするのが難しかったように、行政の不作為の罪を問うのも難しいかもしれません。それでも、被害を予想する報告も積み上ってきています。例えば、子宮頸がんワクチンを接種しなかった、2000~2003年度生まれの女子の将来の罹患者の増加は合計約17,000人、死亡者の増加は合計約4,000人である可能性が示唆されました。厚労省が何もしないと、この被害が増え続けますね。寝覚めが悪くないのでしょうか。

resou.osaka-u.ac.jp

  さて、子宮頸がんワクチンは、定期接種であり「勧奨」を行わなわなければいけません。これを行っていない現状は違法状態としか私には思えませんが、誰も指摘しませんね。そのトリックは、法令にはない「積極的勧奨」という言葉を作り出して、その意味を「接種対象者への個別通知」としたことです。つまり「積極的勧奨」はしていないが、「勧奨」は行っている体にしているわけです。なんだか「禁止はしないが歓迎もしない」みたいですが、こういう場合の真意は「禁止したい」です。では「勧奨」として実際に何を行っているかというと、予防接種法施行令第5条の「公告」ぐらいでしょう。具体的には「予防接種の種類、予防接種の対象者の範囲、予防接種を行う期日又は期間及び場所、予防接種を受けるに当たって注意すべき事項その他必要な事項の公告」になります。でも、接種対象者が公告を目にする可能性は絶望的です。しかも、予防接種法施行令第6条には、「公告を行うほか、当該予防接種の対象者又はその保護者に対して、あらかじめ、予防接種の種類、予防接種を受ける期日又は期間及び場所、予防接種を受けるに当たって注意すべき事項その他必要な事項を周知」を行わなければならないと定めてあります。これは「積極的勧奨」そのものです。私には、「積極的勧奨の差し控え」とは「予防接種法施行令第6条に違反します」と言っているようにしか思えません。

 にもかかわらず、日本国民は、ワクチン副反応のような作為の被害ではすぐ訴訟を起こしますが、不作為にはなぜか寛容です。厚労省もそれがわかっているので違法な不作為を8年間も続けているんでしょう。厚労省を動かすには、不作為を問う訴訟を起こすしかないような気分になります。しかし、それには被害が顕在化していなければなりません。それでは手遅れですし、被害者を利用する反ワクチンと同じ穴のムジナになりそうで気乗りしませんね。

 ついでに言えば、予防接種法第9条では、接種対象者にA類疾病の予防接種を受ける努力義務があります。市町村が「積極的にはお勧めしない」というワクチン接種の努力義務があるんですよ。そして、99%以上の接種対象者が予防接種法第9条違反をしていたんですね。いや、努力したけど接種しなかったといえばいいのか、本心はともかく。

 今の状態は考えてみれば少し奇妙なんですね。法の不備がありそれを改善しないといけないというような問題はありません。子宮頸がんワクチンはA類の定期接種であり、接種対象者は無料で接種できます。希望すれば接種でき何も問題ないと言えばありません。(ただ、ワクチンが品薄で希望しても接種できない事態が危惧されていますが)単に、厚労省といくつかの市町村長がその事実を接種対象者に知らせず、むしろ「接種しない方がいいんじゃない」という雰囲気を醸しているんですね。この態度は行政の裁量権を逸脱して「予防接種法施行令第6条違反」であると思います。それでも、行政訴訟などしなくても、接種を望めば接種できるんですね。要は、接種対象者とその保護者が情報を知って判断できればよいだけなのです。もっとも、それが一番難しいのですけどね。

【追記】

 接種対象者とその保護者が情報を知って接種の是非を判断できればよいのですが、専門的内容もあって難しいので行政が判断して周知せよと法令に定められているわけです。そして、「勧奨」している以上、接種の利益が大きいと国は判断しています。また個人的利益だけなく、社会的利益もあるので、接種対象者にも接種の努力義務があり、市町村は個別に接種対象者に通知して接種を促しているわけです。それがA類です。利益があるか否かの個人差が大きい場合は、個人が判断すべきなので国は勧奨しません。自己責任の面が強くなります。

 ところが、厚労省は子宮頸がんワクチンをA類のままにしながら、実質B類として扱っているんですね。厚労省の接種対象者向けリーフレットにはワクチンの効果とリスクが説明してあり、比較すれば効果が大きいことが一目瞭然です。

・HPVワクチンの効果

HPVワクチンの接種を1万人が受けると、受けなければ
子宮けいがんになっていた約70人※3ががんにならなくてすみ
約20人※4の命が助かる、と試算されています

※3 59~86人
※4 14~21人

・HPVワクチンのリスク

HPVワクチン接種後に生じた症状の報告頻度 1万人あたり9人

HPVワクチン接種後に生じた症状(重篤)の報告頻度 1万人あたり5人

 にも拘わらず、直接比較して国の判断を示すことはせずに、接種者が自己責任で比較して判断せよという立場を貫いています。最後には「接種をおすすめするお知らせをお送りするのではなく、希望される方が接種を受けられるよう、みなさまに情報をお届けしています」と念押ししています。

 予防接種法A類という位置づけを無視し、ここまで腰が引けたのは言うまでもなく過去の訴訟のトラウマでしょうね。同情できる過去の事情はあるものの、法の精神とその運用に齟齬がありすぎです。まあ、齟齬を解消しようとしてA類から外すよりはマシですが。

株を買わなければ配当金はもらえない

webronza.asahi.com

日本の大学の研究業績が低下したのは、大学の研究室が縦型社会であるため、若者が海外に出ないのが原因である。この古い文化を衰退させるためには、若い時代に海外へ行くチャンスを作ってやることだ

  いろいろ書いてありますが、黒川清氏の論はこの程度に要約できます。2021年に書かれたとは思えない新味のない主張ですが、「若い時代に海外へ行くチャンスを」には異論はありません。ただし、海外に行けば日本の大学の研究業績が向上するとは限りませんね。同じようなことは誰でも考えていて、いろんな改革が行われました。改革の一つに、海外に行かせるためかどうか知りませんが、国内の大学の居心地を悪くするという方法があり実際に実行されました。大学の予算が大幅削減され、ポストもなくなりました。効果覿面で、海外に若者に限らず人材が流出しました。ただ黒川清氏の期待とは裏腹に日本の大学の業績も国際ランキングも低下しました。当たり前ですね。

 黒川氏の「若い時代に海外へ行くチャンスを作ってやる」という主張は正しいとしても、チャンスを作るのと追い出すのでは随分違います。そして、追い出しに貢献したのが財務省です。なぜそんなことをするのかというと、財務省に限らず公務員には投資という考え方がないからだと思います。

 でも、研究・教育は長期的な投資です。当面は支出しかありませんが、将来的にはリターンがあります。だから国家百年の計として教育にかつての日本は力を入れましたが、それも今は昔の話です。かくして投資は減りましたが、少ない投資をどこにすべきかについては、有望株はどれかとばかり皆が頭をひねりました。事業仕分けがその一例です。

 しかし、残念なことに儲かる投資法はないというのが経済学者のほぼ一致した見解です。(ケインズはバリュー投資戦略で儲けたそうですが、これは後で述べる堅実なやり方かもしれません)映画や歌のヒットを予想するのもほぼ無理です。歴史を顧みると予想はことごとく外れています。唯一可能なのはインサイダー取引のような情報の非対称性を利用したやり方ですが、不正なのでしてはいけません。結局、大儲けする方法はありませんが、堅実なやり方はあります。多くの株に分散して投資すれば、経済が発展している限りリターンはあります。他者を出し抜いて大富豪にはなれませんが、世間一般並みの利益は得られます。一方、事業仕分け的な選択と集中は危険です。選択と集中がうまくいったとしても、政府が国民を出し抜いて大富豪になってはいけません。それじゃ、「越後屋、お主も悪よのう」と悪徳商人と結託して暴利を得る悪代官です。

 研究・教育への国の支出もそういうものではないでしょうか。大学改革と称して、様々な方策が行われていますが、細かいことを考えてもそれがうまくいくか予想することは困難だと思います。とにかく広く投資する(予算を増やす)、それしかなさそうです。そのうちのいくつかが当たります。博打みたいですが、国民がまともで、国ほどの規模の予算なら大丈夫でしょう。

 投資した株のリターンに相当するものが税収です。国の支出が回り回って、経済を発展させます。ただし、研究・教育分野のリターンは研究・教育機関からの納税という形をとりません。研究・教育の成果は、数多の国民の収益を増やし、その税金として国に戻ってきます。

 現実の財務省は財政危機だからと支出(投資)を減らし、経済を縮小させ、税収を減らしています。税収が減ったので再び支出を減らすというスパイラルを数十年繰り返しています。おそらく、国民を投資先として信頼していませんね。一投資家ならその投資家の収益がなくなるだけで、他の投資家で経済は動き、株式市場も存続します。しかし、財務省は経済を殺す力をもっています。その結果は恐ろしすぎて私には書けません。

■ 無症状者への甲状腺がん検診は過剰診断と考える医師は、たまたま自分に無症状の甲状腺がんが見つかった場合に治療を受けるか

  • 過去記事のコメントの要約

 甲状腺がんの過剰診断の問題では、過剰診断と過剰治療の二つの異なる事柄が絡み合っています。過剰診断で見つかったがんの治療なら過剰診断過剰治療かというとそうでもないのが難しいところです。この件に関しては以前に記事を書きました。

 

shinzor.hatenablog.com

 

  この記事のコメント欄で、名取宏(なとろむ)さんから卵巣がんを例にとって丁寧に理由の説明をしていただきました。要約すると、次のようになります。

 

  1. 無症状の人に検診した場合と対照群(検診しない)に違いがないことは分かっているので、検診は推奨されない。
  2. しかし、無症状の人に見つかったがんを治療した場合と放置した場合の比較はできていない。将来も比較はできないだろう。(おそらく、倫理的に)
  3. したがって、無症状で見つかったがんは、ガイドラインに従って処置(治療)される。
  4. もし、治療せずに、がんで死亡したなら医者は訴えられるだろう。

 

  • 治療を行う理由は、医学的根拠ではなく、医療訴訟対策という「大人の事情」あるいは、患者を安心させるためではないかという疑問

  前節の説明の1.で無症状者の検診と検診無の違いは治療の有無です。検診でがんが見つかれば治療されますが、検診しなければ見つからないので当然治療されないからです。この違いにもかかわらず、両者の死亡率に違いはありません。ならば治療に効果がないと考えたくなりますが、ちゃんと効果がないと言うためには2.の比較を行わなければなりません。しかし、それは倫理的に行うことが困難です。

  1.だけでは、治療に効果がないと言えないのは、いろいろな可能性があるからです。例えば、無症状のがんの中には、将来、死に至るガンに成長するものもあり、それは早期治療で予防できるのかもしれません。しかし、そのまま放置すれば何も害はないのに、下手な治療で刺激して有害ながんにしてしまう場合もあるかもしれません。その両者が相殺していれば。検診と検診無で結果はかわりません。あるいは、別の可能性として、検査でがんが見つかった心理的影響(ノセボ効果)で増えた死亡を、効果のない治療のプラセボ効果で相殺したとも考えられます。他の仮説もあるでしょうが、検証は困難です。

 1番目の場合は、治療の得失が相殺しているので、治療を行わなくても結果は変わりません。有益な治療も有害な治療もあるのですが、個別の症例がどちらなのかはわからず、可能性としては治療をしてもしなくても同じです。個人的にはこのような治療も過剰治療ではないかと思いますが、専門家の意見は違うのかもしれません。一方、2番目の場合(ノセボ効果をプラセボ効果で相殺する場合)は、検診の「失」を治療の「得」で相殺しているので、検診だけ行い、治療を行わなければ「失」だけが残ります。なので、治療を行わざるを得ませんが、そもそも検診を行っていなければ無用だった治療です。しかも、この治療は心理的な効果でしかありません。心理的な効果しかないとわかりながら、手術という侵襲的な治療を行ってよいものか疑問です。

 以上のことをまとめると、無症状のがんの治療にプラセボ効果以上の効果があるかは不明であり、治療を行う合理的根拠はありません。しかし、検診で見つけてしまった以上、ガイドラインに従わず、放置すれば訴えられる可能性があり治療せざるを得ないという「大人の事情」があるということです。そのガイドラインも症状のないがんに適用できるか不明です。適用できるか調査することも倫理的に難しく、調査するにしても10年単位の時間を要するようです。ただし、検診でがんが見つかった場合にノセボ効果があるのなら、プラセボ効果しかない治療でも行わざるを得ないでしょう。このように考えると、確かに過剰治療とは言えないかもしれませんが、それは過剰診断をしてしまったという前提での話です。検診を行っていなければ治療は行わずに済み、検診と治療を行った場合と(統計的な)違いはないのですから釈然としません。

  • 無症状者への甲状腺がん検診を行わなければ、悩ましい問題は生じないが、たまたま見つけてしまった場合はどうか

 結局、一番良いのは無症状者に検診を行わないことです。そうすれば「大人の事情」も生じません。なお、検診で意図的に見つけるのではなく、たまたま見つかってしまう場合もあります。その場合も治療せざるをえないようですが、個人的には疑問です。

 私には胃に憩室という異常があり、人間ドックの結果には必ず記載されています。しかし、特に治療の必要なしと放置されています。憩室が将来、胃がんには絶対ならないという保証はありませんが、その可能性は少ないと分かっているので、不安になってノセボ効果で具合が悪くなることもありません。

 ただ、憩室と甲状腺がんは違うと考える人も多いかもしれません。しかし、私にはその違いがやはりわかりません。あえて考えると、「憩室」と「胃癌」は、名称からして違い、別物ですが、無症状の「甲状腺がん」と有症状の「甲状腺がん」はどちらも「甲状腺がん」で同じという点です。また憩室が胃がんに変化したとしても、憩室の時点での治療法があるわけでもないようです。したがって、憩室を治療しなかったため胃がんになったと訴えられる可能性、つまり「大人の事情」がないことぐらいです。

 今の私の疑問は、無症状者への甲状腺がん検診は過剰診断と考える医師が、たまたま自分に無症状の甲状腺がんが見つかった場合に治療を受けるのかです。

■ 角を矯めて牛を殺す

 

 「病床を減らしたのは誰だ」と突っ込まれていますね。思わず、小泉元首相の悪夢を思い出して、この記事を書きました。

  かつての行政改革では、民営化とともにアウトソーシングが叫ばれました。行政のアウトソーシングとは民間に外注することで民営化とは全く違いますが、なんとなく同じような使われ方をしました。

 民営化とはいわゆるコア業務を手放すことで、民間企業でいえば事業譲渡に近いと思います。それに対してアウトソーシングコア業務をサポートするノンコア業務を外部に委託するだけで、普通に行われています。鉛筆やパソコンを、自分で作っている行政機関はありません。行政にとって、事務用品の生産はいうまでもなくコア業務ではありません。事務用品は、事務用品メーカーに外注(購入)した方が安上がりで、当たり前に行われていることです。

  行政改革では「民間でできることは民間に任せる」というキャッチフレーズがあって、アウトソーシングで経費削減せよということでした。ところが、事務用品同様に、公共工事でも、アウトソーシングはすでに100%近く行われていました。公共工事アウトソーシングとは民間建設業者に工事を発注することでこれまた当たり前に行われていました。

  行政にとっては、工事の実施はノンコア業務であってすでにアウトソーシング済みだったわけです。そこで奇妙なことが起こりました。公共工事自体の削減です。行政のコア業務である公共工事の発注を無駄とみなして削減が求められました。これはアウトソーシングを行うのとは全く意味が違います。公共工事を行うにあたって無駄を省くことと、公共工事自体を省くことはまるで別次元の話です。

  一般的に公共の仕事は支出をすることです。利益がなく民間では出来ないので公共が行うわけです。例えば、道路工事を考えれば明白です。有料道路で採算が取れるなら民間で実施することも可能です。しかし、無料で使える公共的な道路の発注は支出だけで収入がありません。民営化はできません。道路を作った利益は行政が得るのではなく、将来にわたって国民が受け取るものです。それを予測するのが事業評価で、行政の支出と将来の国民の利益を比較します。行政の支出は将来の利益を生むための投資ですが、それを無駄と切り捨てたのが小泉元首相だと思います。

  行政改革とは、このような長期的で国全体の利益を考えて行うものですが、小泉内閣では矮小化され単なるアウトソーシングによる経費削減になりました。なんとなく財務省健全財政路線と似てます。そこまでならよかったのですが、すでにアウトソーシンされている公共工事にはその余地がないため、経費削減ではなくて、公共工事そのものの削減が行われました。その結果、国土インフラは脆弱化し、現在は「国土強靭化計画」として立て直しをしなければならない事態になっています。

  行政改革とは本来、行政のパフォーマンスを向上させるものですが、単なる経費削減というしみったれた方策に堕して、何を勘違いしたのか行政のパフォーマンスを削減してしまったわけです。病気を減らそうとして病人を殺したようなものです。確かに病人が死ねば病気は減りますけどね。

  国立大学や国立研究機関も「改革」されました。こちらの方が事態は深刻と思いますが、強靭化計画はありません。

ダムや遊水池は周囲の農地や町を守るためにあり、それ自身が水を湛えるためにあるのではない

 通貨発行権を持つ政府に「健全財政」なる概念はないと思います。といっても赤字になればお金を刷ればよいから大丈夫という単純な話ではありません。適正な通貨発行量というものはあり、いわば「健全通貨発行量」はあるけど「健全財政」はないという話です。

 話を単純化するため「ベビーシッター組合」で考えます。「ベビーシッター組合」とは経済を単純化したモデルですが、知らない方は、リンク先の説明でも読んでください。経済と通貨を発行する国の役割の分かり安い説明になっています。

ari-no-socialscience.hatenablog.com

  さて、組合員の夫婦にはクーポン券の健全財政が必要です。必要な時に子守を頼むために手持ちのクーポン券をもっていなければなりません。つまり、クーポン券の収支は黒字の方がよいです。しかし、信用があれば借用書を書いて借金ならぬ借クーポンすることもできます。借クーポンは子守をすることで返済します。しかし、度が過ぎると信用を失い借クーポンできずに破綻します。財政破綻です。

 クーポン券を発行する組合事務局には、組合員夫婦のようにクーポン財政が破綻しないように健全財政を心掛ける必要がないのは明らかでしょう。そもそも子供のいない事務局に子守を頼む需要もありません。事務局の仕事はリンク先で説明されているクーポン券のインフレやデフレが起こらないように適正量を発行することです。その仕事を組合員の輪番かつ無料で行うのなら、会計も不要です。ただし、事務局作業に報酬を払うのなら会計が必要になりますが、その報酬をクーポン券で支払うなら収入は不要です。組合全体のクーポン券経済に比べれば事務局費用は微々たるものなので、インフレも起きないでしょう。会計といっても、事務局経費として発行した微々たる額のクーポン券を記録するたけで、収支を気にすることもありません。

 この事務局経費は国の会計でいえば公務員の給料に相当します。実際の国の会計ではそれ以外に公共工事発注なども行いその額の方がはるかに大きくなります。公共工事はそれなりの必要性があって発注されますが、経済的観点だけからいえば通貨量の調整のために行われ、ケインズが言ったように穴を掘って埋めるだけの工事でもよいのでしょう。

 公共工事の類も含めれば会計は大きくなりますが、デフレの時は市中の通貨を増やすため赤字になり、インフレなら市中通貨を吸い上げて黒字になります。「黒字の健全財政」だからいいってものじゃありません。ただし、国外(ベビーシッター組合)外との外部経済を考えれば破綻はあります。

 公共工事とはベビーシッター組合事務局でいえば、クーポン券デフレ状態で誰も子守を頼まないようなときに、子供もいない事務局が子守を組合員に頼み、組合活性化する呼び水のようなものじゃないでしょうか。実際に子守をしてもらうためには、別の組合員の子供の子守をしてもらうことになるかもしれませんが、その手法は何でもよく、重要なのはクーポン券流通量を増やすことで、それは事務局会計の赤字を意味します。クーポン券インフレの時は事務局の子守発注を抑え、支出をへらすので会計は黒字になります。

 国の会計は、ダム遊水地にもたとえられます。洪水になりそうなときは水をため込み、日照りの時は水を放出します。日照りなのに水をため込んだりしません。ダム遊水池は周囲の農地や町を守るためにあり、それ自身が水を湛えるためにあるのではありませんね。

 

【追記8/19】

世の中に流通しているお金に比べて、国家公務員の給料が微々たるものでインフレは起こらないと書きましたが、どんなものか調べてみました。

 お金の定義は色々有りますが、最も少ないM1(現金通貨+預金通貨)を考えてみます。

現金通貨はM1の1割程度で、現金を紙幣(日本銀行券)とすると120兆円程度ですので、流通しているお金は1200兆円ほどになります。

https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/money/c06.htm/

 国家公務員の人件費は5.3兆円でした。国家予算が100兆円程度なのでその5%程です。

https://www.mof.go.jp/faq/budget/01ah.htm

 紙幣は古くなると廃棄され新規発行され、その額は11兆円ほどです。

https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf

 以上より、国家公務員人件費は世の中に流通しているお金の0.4%、国家予算の5%、新規発行紙幣の半分程度です。

コンクリート調合管理強度の試験に必要な供試体数

供試体数

 コンクリート工事では、圧縮試験を行いコンクリート強度の確認を行う。この試験に必要な供試体数の質問は多いらしい。その中で、「調合管理強度」というものの供試体の数が良く話題になる。

 調合管理強度の判定の目的は、生コン工場が建設現場のゼネコンに納入する生コンクリートが注文通りの品質なのかの確認である。現場納入時点ではまだ固まっていないので強度の確認は出来ない。よって固まった後(28日から91日の間)に試験する。しかし、固まるまでの温度や養生の仕方で強度は変化するし、現場搬入後は生コンを受け取ったゼネコンの責任になる。そこで、現場に係わらない一定の条件で養生した供試体で試験を行う。この試験の強度は実際の建物に打ち込まれて固まったコンクリートの強度とは違うが、生コン工場が保証する強度である。

 さて、JASS 5では、この試験の供試体の数次のように定めている。

打込み日ごと、打込み工区ごと、150㎥以下ごとに1回の試験

1回の試験には3個の供試体を用いる。

 さらに、合否の判定基準は次の二つを満足することである。

(a)1回の試験の3個の供試体の強度の平均値が調合管理強度の85%以上

(b)3回の試験の9個の供試体の強度の総平均値が調合管理強度以上

  つまり、判定を下すためには3回の試験(9個の供試体)が必要そうである。

 ここで問題である。

毎日150㎥ずつ4日間で600㎥のコンクリートを打設した場合、供試体はいくつ必要か?

 実は、公式の回答はなく、次のように様々な意見がある。

①最も厳しい意見。コンクリート強度の確認は打ち込んだ日ごとに前記の(a)(b)の1セットを行わなければならない。従って、1日に9個、全体で36個必要である。

②比較的主流の意見。1日に行わなければならない試験は1回でよく、(b)の3回の試験は別の日のものでよい。450㎥以上あるので、2セットの試験を行うため18個必要である。

③緩い意見。3日目までの450㎥までで1セットの試験を行うため9個必要である。4日目に3個採取し、(b)の総平均値は2から4日目の3回の試験の平均値とする。よって12個

 この議論が行われる時に、そもそも何故(a)と(b)の二つがあるのかという根本的な理由は俎上に載ることは少ない。それよりも現場でどうすれば規定に反しないのかを知りたいのである。そのため、規定文の形式的な解釈の議論になる。しかし、規定文があいまいなのでどれほど議論しても結論は出ない。

 

私の意見

 私は、①から③とは違う意見だ。そもそも3個の平均値や9個の総平均値とするのは、コンクリートがバラツキの大きい材料だからである。本来は総ての供試体が調合管理強度以上であるべきだが、それでは厳しすぎるので2段階で緩和しているのだ。

 緩和の一つは、1回の試験では調合管理強度以上である必要はなく3回の試験の総平均値が調合管理強度以上であればよい。ただし、1回の試験の値があまりに小さい、つまりバラツキが大きすぎるのも問題なので、調合管理強度の85%とバラツキも制限している。

 二つ目は、1個の供試体には特に制限はなく、3個の平均値つまり1回の試験が調合管理強度の85%以上であればよい。1個の供試体は強度ゼロでも規定上は良いのである。

 つまり、1セットの判定に9個もの供試体が必要なのは、1個の供試体強度が小さくても(ゼロも可)全体的な強度があればよいわけだ。言い換えれば、大きな450㎥というボリュームの平均の強度があれば、局部的な50㎥のコンクリートの強度が小さくても、他の強度の高い部分が補っていて大丈夫と考えているのだ。150㎥なら85%以上あればよいのである。

 では、補ってくれる大きなボリュームがない場合は、どうすればよいか。補ってもらわなくても良いようにどの局部的箇所も強度があればいいはずである。例えば総量でも150㎥しかないならば、1回の試験が調合管理強度以上あればよい。

 ということで、私の意見は3日目までの9個の供試体で1セットの確認を行い、4日目は1回の試験で調合管理強度以上を確認するというものだ。都合12個と前述の③と同じ個数になる。ただし、判定基準が違うので③よりは厳しくなる。

 

楽ではない可能性

 供試体の数では12個と少なく、緩いのではあるが、1回の試験の判定基準が85%から100%となるので、実はそれほど緩くない可能性もある。しかし、現実にはその可能性はほとんどないだろう。前述のようにコンクリートはばらつきの大きい材料であるため、調合では相当の安全率を見込んであり、圧縮強度試験を行うとかなり大きな値になるのが普通である。さらに調合管理強度の試験とは別に構造体コンクリート強度の試験もある。これは実際に出来上がった建物の強度を推定する試験であり、ゼネコンが保証しなければならない強度である。そして、目的は違うが試験そのものは調合管理強度の試験と殆ど同じだが、1回の試験での85%緩和規定はなく、100%必要なのである。

 

【追記】

 調合管理強度はゼネコンと生コン工場間での責任に係わるが、施主にとってはあまり気にする必要はないと思う。施主はゼネコンに最終的な構造体コンクリート強度を保証してもらえばよい。他の材料、例えば鋼材などは製造過程での性能などは施主は求めない。プロセス管理は製造者には重要だが、施主は最終的な性能があればよいのである。

 レディミクストコンクリートが登場する前の現場練コンクリートの時代では施主側の監督が製造過程についても検査確認していた名残なのだと思う。鋼材のような工場製品は規格証明書を提出すれば試験も不要である。レディミクストコンクリートも工場製品でありJIS規格もあるが、何故か試験を行う。

 まだレディミクストコンクリート工場は信頼性に乏しいと見られているのだろうか。

 

【7/17追記】

 質問が多いのは、少量の場合だ。50㎥しか打ち込まないが供試体は9個必要なのかと。個人的には1回の試験を行い3個の供試体の平均値が調合管理強度以上あればよいと思う。450㎥を150㎥ごとに3つの区画に打設する場合、それぞれの3個採取する。一つの区画をみれば、その平均値は調合管理強度の85%以上しか確認していない。それと比べれば十分だろう。

速さ当り距離

 「距離」=「速さ」×「時間」では、「速さ」が「時間」当たり「距離」と考えるのが普通です。が、「時間」を「速さ」当たり「距離」と考えることもできます。違和感はあるかもしれませんが慣れの問題に過ぎません。時速7キロメートルで5時間進んだ時の距離は、時速1キロメートル(単位速さ)で5時間進んだ時の距離の7倍というだけです。

 違和感があるのは、「距離」と「時間」を先に定めて、そこから「速さ」を「単位時間」当たりに進む「距離」(「速さ」=「距離」/「時間」)としたという言葉を定めた順序に影響されているだけだと思います。つまり、「距離」の単位(km)と「時間」の単位(h)が先にあって、それを使って「速さ」の単位は(km/h)と「時間当たり距離」らしい形になっているというだけのことでしょう。

 仮に「速さ」と「時間」を先に定めて、そこから「距離」=「速さ」×「時間」という順序で定めたのなら、「時間」を「速さ」当たり「距離」とすることに何の抵抗もないと思います。実はそのような順序になっているのが「光年」です。1光年は「距離」の単位で、光の速さで1年進んだ時の距離です。この場合、速さの単位をV、時間の単位をTとすれば、距離の単位はVTとなります。速さはVT/Tで時間当たり距離、時間はVT/Vで速さ当り距離です。全く同等という趣になります。

まだ、アボカドや肉に寿司ネタとして違和感がある人もいるとは思いますが。