「ソロモン海的中突破」より引用。

次に「ソロモン海的中突破」より引用する。

 機動舟艇部隊の計画については別表の通り計画され,吾々山砲は第2次転進と決定された。コロンバンガラ島大発進撃要領についても別表の通り,船舶工兵第2連隊,海軍舟艇部隊,船舶工兵第3連隊でそれぞれ作戦が練られた。
18年9月27日夕刻,コ島第1回転進は実行。チョーセル島スンビ岬根拠地を,舟艇隊員よく任務を自覚,堂々と勇敢に発進した。午後10時頃コ島東側クラ湾の方向より,米海軍M.Jキラン大佐指揮する駆逐艦オースバン,クラクストン,タイソン,スペンス,フーテの5隻,それに掩護された魚雷艇群が待っていたとばかりに出現した。
 当時,舟艇隊大発など小さい舟はレーダーがきかないので,米軍はこの様な間暗闇では魚雷艇の射撃により日本軍舟艇の位置を,丁度猟犬ポインターが獲物の方向を指示するのと同様ポイントしてその後方に控えたハンターの駆逐艦が砲撃を加えるというやり方であった。これはレーダーの効かない舟艇群に対して新しく考えた米軍の戦法であった。
 左正横4K付近海上に激しい機銃の曳光弾が飛び交い,更に艦砲射撃の閃光が連続しながら光るのが見える。米軍に先ず補足された不運な我が舟艇艦隊は海軍大発2隻,船舶工兵第2連隊大発4隻で,コ島北東角の入り江を目指していたものである。各艇は勇敢に的魚雷艇に機銃で応射しつつ南西に変針敵からの離脱を計ったが,運悪く米駆逐艦の集中砲火をかわすことが出来なかった。陸軍大発3隻,海軍大発1隻沈没。陸軍中隊長和気道夫中尉以下51名壮烈な戦死を遂ぐ。第2艦隊長竹中義男少尉は残る大発2隻を指揮コ島高砂浜に向かった。これは真に尊い第一犠牲であった。このお陰で他舟艇艦隊は何れも危機を免れたのである。(合掌)

 海軍舟艇隊9隻はこれも同様離運動を行い南西に針路をとっていたが,コ島近くになり南東に変針北天岬に向首した。その時,約2k前方海上を横切る魚雷艇を発見。メガホンで後方の船に「前方敵魚雷艇がいる。両舷機銃戦用意45度に備え射撃の開始は一番艇にならえ」と伝令。9隻の大発は各艇2門の13粍機銃に弾倉を装填夫夫右左45度筒先を向け,スピードを上げつつ一列縦陣で突撃に移った。
 米軍は左前方に1隻それらしい船影が闇の中を遠ざかって行っただけで何事もなくすんだ。
 やがて黒いコ島が両手を一杯にひろげ舟艇隊を迎えるように迫ってきた。時計は午前3時である。夜明け迄あと一時間半。海図を見ると北天岬迄未だ10k東へ走らねばならない。40分はかかる。全速で突っ走る。
 北天岬と思われる付近まで来て速度をゆるめ,今日一日敵機の遮蔽場所,入り江を探さんとしたところ,青い灯が来い来いと言わぬばかりに縦に振られている。近づいてみると陸軍で胸近くまで海水につかり,吾々舟艇隊を案内に来ているという。島近くでは陸軍兵士が海につかり手を振って来い来いと呼んでいる。左右はジャングルである。兵士は奥の方まで続いて手を振っている。やっと舟艇隊全部遮蔽できるジャングルの水辺迄来ると,奥地より伐ってきた遮蔽木枝を大発に被せてくれた。
舟艇隊員もこれ程までして迎えてくれた陸軍に感激し,やはり来てよかったと陸兵と握手している姿。本当に涙が出るような光景である。
 それより椰子林の中に休憩所を探し,食事,睡眠を取り休む。
 夕刻近くになると,歩兵が奥山手より笑顔でおりてくる。兵の顔を見ていると吾々舟艇隊も来た甲斐があったと思う。兵も吾々一時休憩している姿を見て海軍と思ったのであろう「本日は有り難う。ご苦労様です」と言って通過する。陸兵の去った後は本当に淋しい。コロンバンガラ島の椰子林に一人残されたらどんな気持ちだろうとつい淋しいことを考える。「出発しましょう」と言われ装具を担ぎ船に向かう。

18.9.28夜,我駆逐艦4隻撤収部隊搭載の為北天岬に来るので,海軍大発は岸から駆逐艦へ人員を運ぶことになっていた。夕方,各大発は入り江を出て浜で撤収部隊を順次積み沖に出て行く。全部で大発12隻搭載人員1850名である。別の海軍大発6隻はコ島東側大手浜から,人員800余名を運んで北天岬にやって来た。午後9時前ベララベラ島の方から4つの艦影が,北天岬に急速に近づいてくる。先頭の艦より一団となって待ち構えている舟艇隊に向け,微光力の青ランプ味方識別信号を二回送ると急に速力を落とした。舟艇隊も直ぐ信号で応え列を解くとソレッとばかり母犬に群がる子犬のように,微速進入する駆逐艦に集中してゆく。先頭の艦は特徴のある朝顔形の艦首をした旧式の月形駆逐艦皐月,同水無月,同文月,天霧である。各艦上では総員先頭配置について主砲も機銃も皆沖の方に向け旋回。砲員は粛然と射撃準備の身構えである。
 やがて停止し漂泊すると,それぞれ横付けにした大発より索や綱梯子を伝い乗艦してゆく。午後9時30分2685名全員が難なく移乗完了。作業終われば長居無用である。大発は艦より離れた。その時,6隻の米魚雷艇が吾が駆逐艦を襲撃してきた。それは最初暗い海上に高く盛り上がった波がすごい速度でやってくるのが見えた。
 ところが米魚雷艇は少し手前で折から集結して入り江に帰ろうとする吾が舟艇部隊と鉢合わせになり,双方驚くと同時に忽ち激しい銃撃戦を展開した。米魚雷艇は己の位置を曝露し我が駆逐艦から痛烈な砲撃を受けるや,情勢不利と見て逸早く逃走していった。我が大発2隻座礁,人員は収容したが,船体は2日後米軍機の銃撃を受け炎上沈没。

9月28日 夜陸軍大発17隻,第3連隊大発10隻の舟艇部隊はコ島東側,西側の入り江に入る。午後7時より10時にかけて総勢2500名を乗せ発進,チョーセル島スンビーに向い危険区域を通り抜け無事基地へ帰着した。

翌9月29日夕刻海軍舟艇部隊がコロンバンガラ島北岸の月岬から大発5隻に500名,小浪入り江から4隻に400名,高砂浜から2隻に200名を搭載。それぞれ舟艇隊別に護衛なしでチョーセル島スンビ岬基地に向け進発したが,前夜のようにはうまくいかなかった。
 午後8時頃一番東寄りの小浪入り江から北方した艇隊は,右舷2粁付近に黒い影のように敵魚雷艇2隻が同航徐々に接近してくるのを認めた。
 中隊長庄司中尉は直ちに機銃並びに擲弾筒(てきだんとう)の発射準備を命じた。その時見張り員がけたたましい声で「右150度敵艦多数」と叫んだ。庄司中尉は驚いて右舷斜め後方を双眼鏡で見るといるはいるは,暗い海上に薄ぼんやりと駆逐艦らしき艦影が4隻ならんでまぎれもなくわが舟艇隊を尾行して居ることが解った。
 これはF.Bウォーカー大佐の指揮する米駆逐艦「パターソン」「フーテラルフ」「タルボット」「マツカラ」の4隻で米軍の常用戦法通り魚雷艇の猟犬ポインター駆逐艦のハンターが後続していたのである。庄司中尉はとっさに下手に魚雷艇と撃ち合って艇隊の位置を曝露すればたちまち駆逐艦の集中砲火を受けることは間違い無いと判断した。そこで意を決すると後続の各艇に方向性の発光信号で「今より取り舵に待避する,列を解け」と命令した。信号が各艇に届くかぬうちに後方で敵艦の射撃が始まった。艇隊は各艇それぞれが「トリカジイッパイ」をとって,敵に艇尾を向けて全速力避退した。
 米軍は先ず星弾を射撃して目標付近の上空にたくさんの落下傘付照明灯を吊るし,わが大発を見つけは砲弾を撃ち込んでくるのである。レーダー射撃と違って米軍も厄介なのである。
 こっちの付け目は星弾が消えているあいだに各艇は散開距離をひろげて,被害と被発見を局限するすることである。米軍の魚雷艇は艦砲射撃が始まると,すでに弾着圏外へ姿を消してしまうので,あとは駆逐艦の目を逃れればよいのである。
 しかしこうなると米軍も「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」で,とにかく撃ちまくってくる。わが舟艇の周辺には,うなりを上げて敵弾が無数に落下してくる。舟艇隊員も転進部隊も,いつまぐれ弾が当たりはしないかと生きた心地はしなかった。
 又大発のエンジンは力の限り回った。シリンダーが加熱して焼けそうである。機関員は「機関の停止はわが艇の命の終わり」とばかり必死の努力で,最後までオイルや冷却水の調子を狂わせなかった。長い緊迫の二時間が過ぎた。
 ようやくチョイセル島が目の前に黒々と長い島影を見せた。米軍は長追いすると我が駆逐艦や潜水艦の待ち伏せに会うのを恐れて,射撃を中止して帰っていった。
翌9月30日 それまで故障のため修理中であったがやっと完成したので,転進部隊3昨夜25名を海軍大発4隻に乗せて午後5時30分コ島北岸を離れてチョイセル島に向かう。間もなく米軍艦艇の追跡を受けた。前夜の駆逐艦4隻と魚雷艇である。一番艇は船体に被弾して浸入してきた。近くの兵が自分の上衣を脱いで丸め詰め込んでふさいだり,皆で手送りで水をかい出すなどしてスンビに辿り着き,人員65名を揚陸させた後に修理の手段無く浸入増大ついに沈没す。
 二番艇はどうやら無傷でスンビに73名揚陸させた。
 三番艇は午後7時45分に艦砲の猛射を浴び直撃弾を受け転進部隊90名と共に沈没。
 四番艇はスンビの東20粁にあるサンビで91名を揚陸したが艇長以下6名の戦死者を出す。(合掌)

 以上セ号第一次撤収作戦は戦死者も出し残念ではあったが,より以上の成果をあげ終了した。