1940-01-01から1年間の記事一覧

昭和16年1月

内務班の教育も厳しさを増してくる。一方亜熱帯特有の昼熱く夜寒い気候で,夜は毛布下2枚上3枚被っても冷え込んで寝付かれない。 正月は内地と同じく餅が出た。魚は殆ど冷凍か干物である。下級品や慰問袋も渡り,賑やかな正月となる。酒も飯盒で燗を付け,先…

昭和15年11月中旬 

西村へ帰隊した翌朝火砲の手入れをしていると,突然大きな爆発音,砲舎の兵も驚く。近い音であり皆不審に思う。間もなく阿部隊弾薬庫で昨日持ち帰った弾薬類を整理格納中,爆発したものと判った。山砲の手入れを了え直ぐ弾薬庫へ行った見た処,即死者あり医…

-昭和15年9月中旬

愈々出兵である。原隊で整列した留守隊の兵に,歩調を合わせて答礼し営門を出る。久留米駅迄行進中,井筒屋デパートビルの窓からは紙吹雪・紙テープを投げてくれる。本当に内地を発つんだという気になる。久留米駅南ガード付近で,同年兵の彼女たちが旗を振…

-昭和15年9月上旬

吾々6月12日付応召兵は満州・中支・南支各方面出兵の命あり。吾が中隊同期75名中70名南支派遣と決定。他の5名は残留となる。派遣兵は二泊三日の外泊となり夫夫家路につく。その翌日残留5名の内4名も南支派遣となるが外泊なし。只一人原隊勤務に残るとは派遣…

昭和15年8月下旬 

検閲は大分県日生台へ行く。汽車は筑後川岸を登っていく。線路傍きの旅館の窓から、慣れているのか日の丸を振り「兵隊さん万才!」と呼んでくれる。演習は厳しかった。然し原隊よりは楽々できた。一周間の日程を実施、帰隊した。帰隊すると留守中応召兵が入…

昭和15年6月12日 

愈々西部第53部隊に入隊である。営門を入る。 山砲兵科で、軍服・衣類・帽子其他支給品は総てが大きい。気を使った下士官が「此の営門を入ったら、すべての支給品に自分の身体を合わせるんだ」と聞かせてくれたが、大世帯なれば致し方ないことだと思った。私…

昭和15年6月11日 

氏神猛島神社に於ける島原市主催の戦勝武運長久祈願祭。小生共応召者3名である。 午前10時30分出席。祈願のあと、出征者3名の挨拶である。私も「本日は私達の為、わざわざ時間を割き祈願祭に出席くだされ有り難う御座いました。唯今より何等心配することなく…

昭和15年5月21日

忘れえぬ数々の生死・栄光と死斗への門出。私の第二回召集は、佐賀警察署勤務拝命後(s15.5.11)間もなくのことだった。 その日午前11時頃O坪次席警部の訓練中、折しも明治神宮剣道全国大会を目指す連日の猛訓練は、当日の春うららな陽気とあいまってうつらう…