昭和17年4月

 深圳引き揚げ,広東に向かう。深圳の駅近くで菓子屋の職人と娘が日の丸の旗を振り「サイデイガイ サイナラ」と呼んでくれた。職人は菓子を袋に土産として持ってきてくれた。
 深圳出発の翌日,共産軍の部落通過中小銃弾が撃ち込まれる。中隊は低い反対側田圃に降り,道路上に山砲を組み立てた。「目標遙か前方山の下に見える白い3階建ての一階窓,直接照準榴弾瞬発信管高低なし4000米3発つづいて撃て」の命。照準後「ヨシ」というと,一番砲手リュウジョウを引く。弾は発射したが何処に落ちるかとその侭眼鏡で見ていると,「命中」という隊長の声と同時に窓から白煙が上った。「撃ち方止め」で一発だけになったが,本当に観測も良いが砲もよく命中するものだと思う。
 それより広東まで一週間を要した。
 広東西村の部隊に帰営すると古い兵は満期除隊となり,編成も変わって来る。内務班も厳しくなる。シンガポール,フィリピン等戦勝戦勝で全国民が手を挙げて喜んでいると思ったのも束の間。ニュギニア,ソロモン群島方面では鍔迫り合いの戦いとなり,その方面の話を聞くと日本軍がそんなに脆いんだろうかと不審に思えた。日本兵は靴もなく素足で歩き,米もなく草根や葉を食べている。某所では捕虜になった日本兵が,ローラの下敷きにつぶされたと聞く。入ってくる話は想像も出来ない事ばかりである。
 当時最も戦闘の激しいソロモン群島方面の戦況を見るに,*1 

 昭和17年5月3日,ソロモン群島東南端フロリダ島ツラギへ陸戦隊400名上陸。水上機基地を作る。
 昭和17年5月4日,米機動部隊艦載機空襲。
 昭和17年5月8日,珊瑚海海戦。史上初の空母大空母の艦隊航空戦となる。吾が方小型空母傷ァ鳳を失い,米国は最大空母レキシントン沈没,飛行機損失は日本100機,搭乗員は米国二倍以上,米国はヨークタウン中破・油送船ネオレヨー・駆逐艦シムス・飛行機66機であった。
 昭和17年6月5日ミッドウェー海戦惨敗。珊瑚海の一ヶ月後喫したミッドウェー惨敗は日本機動部隊の大きな痛手となり,日本軍は航空基地の重要性を悟った。その後慌てて,
 昭和17年7月1日ガダルカナル島へ設営隊2600名を上陸させ飛行場建設,16日より工事開始。
 昭和17年8月5日ガダルカナル飛行場完成。当時日本軍所在兵力2570名(高角砲4,山砲2,機銃若干,陸戦隊247名,小銃360丁)であった。又すぐ隣のツラギは海軍警備隊400名,水上機基地隊員342名,設営隊144名,計886名であった。
 昭和17年8月7日,連合軍はガダルへ海兵隊11000名,ツラギへ3000名を上陸させる。
 昭和17年8月8日、ツラギ玉砕第1号となる。ガダル飛行場占領される。
 昭和17年8月8日夜半重巡鳥海を先頭に巡洋艦7隻,駆逐艦1隻がルンガ泊地に突入。米豪連合の重巡4隻を撃沈,軽巡2隻大破。吾が方無傷で引き揚げ,猶お米軍側乗組員の損失4000名である。一方的な大戦果でこれを第一次ソロモン海戦という。
 昭和17年8月18日夜,ガダル飛行場奪回の命を受けた陸軍一木部隊900名が駆逐艦6隻に分乗上陸。然るに3日後に行った総攻撃も,戦車6輌を有する優勢な敵に包囲され,一木連隊長以下777名壮烈な戦死を遂げる。
 昭和17年8月下旬より同年9月上旬にかけ上陸した川口支隊主力を加え,吾が方9000名。川口支隊長は速戦即決を企画,斬り込みを繰り返した。が既に重火器で固められた米軍に尽く討ち取られて了うという無残な戦闘であった。その後輸送艦日進が,第二師団司令部と野戦重砲(15cm榴弾砲)を揚陸,9月10日には17軍司令官百武中将もガ島に上陸した。

*1:他の書籍を写したものと思われる