-昭和15年9月上旬

 吾々6月12日付応召兵は満州・中支・南支各方面出兵の命あり。吾が中隊同期75名中70名南支派遣と決定。他の5名は残留となる。派遣兵は二泊三日の外泊となり夫夫家路につく。その翌日残留5名の内4名も南支派遣となるが外泊なし。只一人原隊勤務に残るとは派遣兵に申し訳なく、亦一歩遅れを取る感じで落ち着きがない。処が、その翌日、急に私も南支派遣の命を受けた。これでよい。
 中隊の同期75名南支行きとなり、手を握り喜び合った。然し出発迄日数なく、私には外泊なし。故郷の母へ電報、外地行きをほのめかす。兄午前中、母午後面会に来る。兄へは当時貴重品ともいえる靴下20足、煙草誉15箱土産に渡す。母はおそくなったので、部隊前の長崎屋旅館に一泊の許可を貰い宿泊した。今更話すこときくこととてないが、夜遅く迄弟妹達のことを話し合い、共に元気で頑張ろうと話し合う。処が隣室で聞き覚えのある声がする。同室を訪ねた処、同年兵で南支派遣残留5名の内の一人、Y田という福岡県出身の温和な長身の人であった。矢張り外泊がなく、奥さんが娘さん二人連れて面会に来、准尉に相談外泊許可を得たものである。「俺も母が面会に来ておそくなり、外泊許可を受け此処に来たんだ」と言った処、奥さんも心打溶け、ビールを勧めて下さった。夫夫の話もあることだからと言って10分位で母の部屋へ帰った。