-昭和15年9月中旬

愈々出兵である。原隊で整列した留守隊の兵に,歩調を合わせて答礼し営門を出る。久留米駅迄行進中,井筒屋デパートビルの窓からは紙吹雪・紙テープを投げてくれる。本当に内地を発つんだという気になる。久留米駅南ガード付近で,同年兵の彼女たちが旗を振り振り駅までついてきた。上り臨時軍用列車で門司駅に向かう。途中の駅・駅でも日の丸の旗を振っての歓送である。門司駅下車。駅前で宿舎の割り当てを受ける。
 本当に縁があるのか,久留米長崎屋旅館で同宿した兵Y田君と一緒だった。国道より海岸の方へ下った料亭である。亭主に挨拶。「どうぞ,遠慮は禁物です。内地も当分の間,最後の夜として充分おくつろぎください。」「何かあれば女の娘に申し付け下さい。」と丁寧この上なし。入浴後夕食,酒ビールは勿論のこと大きな鯛に至れ尽くせりの料理だ。接待を受けている時,5・6名の同年兵が店に遊びに来る。
 お陰でご主人の応対となる。吾々2人の替わりに遊んで行ってくれと思った。
 翌日は朝早く目が覚めた。すがすがしい朝だ。朝食後,ご主人へ昨夜接待のお礼を述べ,準備を整えて宿舎を出る。既に,集合場所では,別れを惜しむ家族や兵達で一杯である。思えば原隊の人事係准尉が「N田お前は俺の当番として暫く原隊に居て貰い,適当な処へ回って戴くよう最後まで頑張って見たが駄目だった。初年兵教育の他留守隊も仕事が多いんだよ。先のことは判らないが南支では体に注意頑張って来いよ。」と言って下さり,最後の一人迄残留となり派遣がおくれた理由を話して貰った。准尉へ「ご心配おかけしました」とお礼を申し別れたが,人間の運命も先のことはわからないものである。
 集合,整理,点呼,訓示の後,隊伍を整え桟橋へ向かう。婦人会,学生ブラスバンド等埠頭は一杯だ。やがて乗船,輸送指揮官挨拶・門司市長の励ましの言葉。言葉が終わると同時に一斉にブラスバンド吹奏・婦人会の合唱。船がいよいよ埠頭を離れ出すと,送る者送られる者あらん限りの声。感激,感激だ。
 途中波おだやかではあるが,大きなうねりに気分を悪くする者も出る。九州・五島・台湾を遙か左に見て一週間,ジグザグ航海である。島。やがて珠江の河口の入り,広東の玄関といわれる黄埔港に無事上陸する。初めて見る中国本土,熱い。日本軍雑役に雇われた姑娘が直ぐ目の前をペシャクシャ話乍ら通る。山積みされた荷物は軍需品と思われるものである。
 広東市西村の留守部隊に着く。留守の兵少なく淋しい。大陸の一夜を過ごした。
 独立山砲10連隊は当時援蒋ルート遮断の任務を帯び仏印進駐。国境を越え平和進駐の由。事態は世界の情勢でどう変わるか判らない。
 部隊追及の命を受く。広東黄埔港より,亦乗船,海南島を左に見て三日後仏印海防(ハイフォン)港に着く。この港も,日本軍トラック・戦車その他軍需品等で一杯だ。トラックに分乗,西に向かってやがて河内(ハノイ)市。通過する街は道幅も広く,熱帯樹の街路樹並木等街の大きさを偲ばせる。それより南北に通じる舗装された所謂援蒋ルートの道路に出る。北に向かって一直線ジャングルを突き抜け,田園を通過し大きな鉄橋を渡る。やがてフランス式建築庭園ーナポレオンがすぐにでも出てきそうな−家並みを抜け丘陵の草原に出る。此処が中仏国境の町ランソンである。兵舎の様な建物が並ぶ中に入る。其処で大隊より中隊へと別れる。吾々は独立山砲10連隊第2大隊第5中隊に配属される。約一ヶ月駐屯,仏印軍の兵舎で過ごす。山砲の説明を聞く。久留米では94式山砲という最新式で後方脚が開いており,当連隊では明示41年開発の41式で後方脚は1本になっている。平地では94式,山間では41式の方が安定しそうであるが,一発も撃ったことがなくわからない。教官は百人切りの別名ある中尉。助教はK島軍曹というバイアス湾上陸の現役パリパリである。他に助手2名。演習は実戦談を混じえ教育も厳しい。某日の渡河訓練中,佐世保出身のT木同年兵が一人で砲身を担い,幅40米・川底迄,米を渡河し終わった。
 初めて見る肩腰足の強い兵隊がいるものだと思った。小生は砲身を担いで100米歩くのが一杯である。先に述べたk島軍曹は久留米近在の出身で,数数の死線を越えてきた下士官である。訓練の説明も手際よく,こうだああだとよく納得できる。又演習中死んでも名誉の戦死にしてやる頑張れという。安心して訓練に励めということであろう。或日の休憩時大木の木陰に腰を下ろして居たが,突然軍曹は大きな声で言った。
 「日本に居たとき,町の青年同伴で久留米の街へ冗物に行き,町角の交番所で巡査に呼び止められた。『お前達若いモンがぶらぶらして何しとるか』と言われたので,皆で冗物に来たと言うと巡査は『早く冗物してぶらぶらせんと今の時勢だ,早く帰って仕事せんば』と喧しく言った。何も悪いことはしてないのに,威張りかえって言われたが,巡査はあげんもんだろう。今度の応召兵中に巡査が居ると聞いた。どげん顔しているか名前をあげて見れ」と。小生何も悪いことはしていないので温和しくしていたが,他の同年兵の中より「それはN田です。」と言った。軍曹は「なんだN田か,よしわかった。」といってそれまでであったが,どうかすると砲身を担ぎ,草原を廻らせられたかも知れないところだった。砲手班として順交替で訓練をうけ2番砲手と決定する。
 帰りはハノイで2泊する。宿営地の近くには,案南人の青少年が菓子果物タバコ等交換に寄ってくる。小生いたずら気で空のビール瓶にお茶を入れ,栓の綺麗なやつを拾い堅く締めて5本見せた処,すぐ軍票で買ってくれた。夕刻亦そこへ行き交換はどうなっているか見ていたところ,安南の青年はビール瓶栓を調べ逆さにして厳重に交換している。ああ,午前中のお茶の一件がばれたかと思ったが,そのままにすごした。
 翌日トラックでハノイ発ハイフォン港へ向かう。輸送船内では馬の手入れに苦労する。黄埔港に着き,広東西村の留守部隊へ帰営す。