限られた資源の元では、何かを安全にすれば、別の何かが危険になる

 私は、福一原発の放出水の処理はやり過ぎだと思います。

 処理水は、通常の原発の排水と同様の告示に従います。水中における告示濃度限度は、放出口における濃度の水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1ミリシーベルトに達する濃度です。海水を2リットル飲めば、塩分過剰摂取で1日で命を失うかもしれませんから,70年間続けるのは不可能ですが、とにかく、そういう想定です。ちなみに、日本人の年間被ばく線量は自然放射線が2ミリシーベルト、医療放射線が2.6ミリシーベルト程度です。計算の具体的方法は以下の通りになります。

 まず、ALPSによって、告示別表の核種の告示濃度比総和を1以下にします。次にALPSでは除去困難なトリチウムを告示濃度限度(60,000Bq/l)の1/40以下,WHOの飲料水基準(10,000Bq/l)の1/7以下の1,500Bq/lに希釈します。

つまり、トリチウムもそれ以外の核種も基準の1/40以下にしています。飲料水でもないのに、WHOの飲料水基準の1/7です。

 何故、これほど「安全」にするのでしょうか。実は原子力業界は過剰なほど安全を気にします。それがかえって、疑いの目で見られる原因にもなっていると思います。過剰対応の一つの例が「線量目標値」です。

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 これは、有害なものは少ないに越したことはないという考えによるもので、実現可能なら出来るだけ少なくしようという努力目標です。守らなければならない許容被ばく線量の基準ではなく、他の業界ではあまり目にしません。(環境省の環境基準ぐらい)すぐには守らなくてもよい将来の目標値みたいなものです。こういうものが提示されると、現状は危険なのに、技術的に安全にできないため、将来に問題を先送りしていると疑う人も出てきます。しかし、現状が危険と言っていません。それは、解説の3を読めばわかります。

3. 「線量目標値」として示された「被曝線量」は、放射線障害の可能性の点から定められたものではなく、その実現の難易度を評価し努力目標値としての妥当性を判断して定められたものです。

 放射線障害の可能性の点から定められたものではないのです。では、守らなくても放射線障害は全く起こらないのでしょうか。その保証はありません。自然放射線でも障害は起こっているのですから。しかし、普通、自然放射線を気にしたりしません。紫外線で皮膚がんになると恐れて、一切日光を浴びないとかえって健康に良くありません。何事も得失があり、「得」が「失」を上回ればよいのであって、「失」をゼロにしようとすると別の面の「失」が増え、総合的に望ましくないことになってしまいます。このことは、日常生活では誰でも理解しており、交通事故が心配だと一切、車を利用しない変人は稀で、大抵の人は事故の可能性を分かりながら車を利用しています。

 この得失の評価らしきものが、線量目標値解説の「その実現の難易度を評価し」かもしれません。例えば、被ばく線量を限りなくゼロに近づけていけば行くほど、それ以上少なくするのは困難になります。可能だとしても、膨大な費用やエネルギーが必要になります。線量ゼロにする電力がその原発の発電量を上回れば無意味になりますし、それほどではなくとも、その電力を医療などに使えば、100人の命を助けることが出来るかもしれません。それに対して線量を少なくした効果で命が助かる人がほぼゼロなら、線量目標値の達成は馬鹿げています。

 ところが、限られた資源や費用を他に使うことの効果の評価は、他分野の人間には非常に難しいです。一般的には経験的にどの分野に資源や費用を配分するかは政治や市場が決めています。私は建築分野の人間なので、建築の安全へお金が使われれば大変ありがたいのですが、そのために他の分野が犠牲になるかもしれません。では、どうするのかは、社会全体(政治家、市場など)で決めるしかないでしょう。

 原子力業界は、この点について他の業界と少し違うように思います。一般の建築より原発の耐震性を高くするのは当然ですが、その程度が大き過ぎ、そこまで丈夫にする必要はあるのだろうかと個人的には疑問を感じています。原子力業界の過剰とも思える(他の業界も含めて総合的にみれば危険になっている可能性もある)安全対策は、世間の原発への不安と絡み合っていて、「安全神話」を生み出しました。それと「線量目標値」は無関係ではないでしょう。

 「線量目標値」に相当するものは、建築業界にはありません。しかし、安全性の向上に向けての努力は行われています。その手順は被害経験から始まります。大きな地震が発生し、社会的影響があるような被害があれば、調査が行われ基準が改正されていきます。ここで、重要なのは、被害を認めていることです。建築基準法は、どのような地震でも耐えることは要求していません。基準法に定める地震より大きい地震はありえます。あらゆる地震被害を予想して対処するのは、理想に過ぎません。現実には被害は起こり、その被害額は分かりますので、それを防止するための費用と比較でき、それが法改正判断の根拠になります。被害額を上回るような膨大な費用がかかる対策を要するような改正は行われません。例えば、東日本大震災津波被害が起こりましたが、建築的な津波対策は現実的ではなく、法改正は行われませんでした。

 ところが、建築分野と違い、原発の被害を世間は認めません。千年に1度の大津波にも耐えることが要求されます。事故発生後の避難計画もあるのに、事故は認めません。この原因は原発が巨大すぎるという所にあると私は以前から考えています。その他にも、廃棄物処理など、現状の原発には問題があるのは確かです。

 巨大原発には問題があるとはいえ、廃炉処理の一過程である処理水放出にも過剰な安全性を求めるのはどうでしょうか。しかも、反原発の要求だけでなく、原子力業界自身がやり過ぎと思えることをしています。人間ドックで毎年、2.6ミリシーベルトのX線を浴びているのに、海水を毎日2リットル飲むというあり得ない仮定で計算して、0.025ミリシーベルト以下にしようとします。これほどの対策をしても、告示濃度基準では不足で、努力目標でしかない「線量目標値」以下にすべきだと言う人は言うのです。処理水放出の費用は400億円と言われていますが、「線量目標値」以下にするにはこの何倍の費用になるのか見当もつきませんが、効果は殆どなく、他の安全対策に使った方が有意義だと思います。