大事な議論がされない(原発編)

 原発否定にあたり,原発施設の耐震性不足や放射線被害を理由にするのは本質ではないと思います。耐震性は一般の建物でも要求されますし,放射線防御は病院のRI検査でも材料のRI非破壊検査でも求められます。十分な対応を行えば,一般建物やRI検査同様に原発も認めなければならなくなるからです。もちろん,耐震性のない原発が許されないのは当然ですが,耐震性のある原発は否定できません。

 しかし,現実には耐震性不足や,低線量被ばくの議論ばかり行われています。この方向性では,原発は既に,一般の建物やRI検査に比べ,高い安全性が確保されていますので,それでも不足だとして,結局ゼロリスクを要求することになってしまいます。ゼロリスクはありえないので,反原発は無茶なことを要求していると推進側に反論されてしまいます。

 反原発の理路は,ありえないゼロリスクを要求せざるを得ないような原発は否定されるとなるべきで,そのためには,なぜ原発だけゼロリスクが要求されるのかという理由が重要です。その理由こそが原発否定の本質であるわけですが,これがいつもあいまいです。

 この理由はいろいろあると思いますが,私が考えるのは「被害の規模が大きすぎる」という程度問題です。福一事故後の状況はそれが実感できる貴重な機会なのですが,甲状腺がんが多発したというような的外れの事ばかりいう反原発が目立ちます。現実の福一事故の最大の被害は放射能の影響があろうがなかろうが,大規模な避難をせざるをえなかったことじゃないでしょうか。そして,それがいまだに続いていて,地方社会が崩壊に瀕しているわけです。

 安全対策には必ず余裕というか安全率が必要です。現実に被害が生じるぎりぎりの対策では危なっかしすぎます。燐家が火事になれば,延焼するかしないか分かりませんが,とりあえず避難します。結果的に延焼しなければ「よかったね」で済みます。最近のアスクル火災でも避難は1週間,普通の火事ならせいぜい1日程度でしょうから。ところが,原発事故の避難は6年たっても続きます。さらに非難する人数も桁外れです。これは過剰対応なのでしょうか。福一事故程度なら過剰対応という可能性も十分あると思います。しかし,もっと過酷な事故も考えられ,過剰対応ではない事態もあり得ます。つまり,原発の最大の問題は,町の一つや二つを崩壊させるほど事故の影響の規模が大きすぎることなのだと思います。不幸にして事故が起こってしまった場合は,避難の範囲や避難解除の条件やタイミングは非常に悩ましくも難しい問題ですが,町の復興にとって重要です。しかし,深い議論は行われません。

 原発を受け入れれば,非常に大きなメリットがあります。その一方で,万が一の事故で故郷が失われる可能性があるがそれも受け入れるのかという厳しい決断を本来はしなければなりません。ところが,そこのところはあいまいにされています。原発事業者は,反原発の要求は無茶なゼロリスク要求だと批判しますが,自分が受け入れ自治体に説明するときは,故郷が失われるようなリスクはゼロであると誤解させるような説明をしているか,あるいは言葉を濁しています。

 個人的には,そのようなリスクは受け入れがたいので反原発なのですが,遠くの自治体が受け入れるという判断をするのは自由だと思っています。その自治体の住民の中には受け入れられない人もいると思いますが,その場合は引っ越しの自由があります。引っ越しも簡単には出来ないので,事業者の補償で行う必要がありますが,いわば,先取りした避難ですから妥当でしょう。つまり,私の反原発は,「日本に原発を作るな」ではなくて,「私の住む町に原発を作るな」です。原発事故の規模が大きいとはいえ,日本が崩壊するほどのことはないと思っていますので。ゴミ処理施設のような迷惑だけど必須施設ではこういうエゴは許されませんが,原発はなくても構わないでしょう。必須という説得力のある説明があれば,また考えはかわりますが今のところ知りません。こういう議論があればよいと思うのですが,なかなかありません。