完璧を求める錯覚

 通常,建築物の耐震診断は地上階のみ行い,基礎部分は行わない。専門家ならその理由を知っているはずだが,一般の人は疑問に感じるかもしれない。なんと言っても基礎が大事ではないか。基礎が壊れれば,それが支える上部構造も壊れてしまうのだから,不思議に思って当然である。でもそうではないのである。

 一般的に言えば,基礎の地震被害は少ないという実態があるので,診断を行う必要も少ないということはいえる。しかし,全く被害がないわけでも無いので,理由としては不十分である。本当の理由は,基礎被害は人命に関わるようなことが無いからである。例えば,杭が折れて,建物が傾いてしまうことがあるが,一気に倒壊するようなことはない。地面がある程度支えてくれるので,徐々に傾いて行くだけである。避難するだけの時間的余裕は十分あるのである。

 液状化被害が一般に知られる様になった新潟地震では,アパートが転倒してしまったが,人的被害は少なかった。それに比べて,地上部分の被害は人命に関わる場合が多い。耐震診断とそれに基づく補強は,人命確保が第一優先される。経済的余裕があれば,基礎の補強も行うのがベターであるが,予算が足りないなら,取りあえず上部構造の補強だけでも行うべきである。

 余談であるが,基礎が壊れたため,上部構造への地震エネルギーの入力が減る場合もある。意図せざる免震構造である。かつて1階を弱くするソフトファーストストーリー建築というのがアメリカにあった。その理論は,正しかったが,1階には人が住んでいるのでサンフェルナンド地震で人命を損なう結果となった。しかし,基礎なら人命を損なわないのである。基礎を補強した結果,上部構造の被害が拡大することもあり得ないではない。

 ところが,この優先順位を理解していない専門家も存在するのである。国の建築物の耐震補強工事で基礎杭の耐震性が不足しているという指摘を会計検査院の調査官がしたことがある。これに対して,上記のような説明を担当者が即座に行えなかったのである。担当者は一応専門家である。

 このような優先度を考慮して,完璧な対応を緩和することは他にもあるのである。法令は過去に遡って遡及しないので,法令改正のため現行法規を満足しなくなった既存建築物も違法ではない。これを既存不適格という。違法ではないが,望ましい状態とはいえないので,大規模な模様替えや修繕を行う場合は,現行法規に適合させる必要がある。しかし,手を付けなければそのままでよい。しかも建築基準法が求めているのは耐震性だけではない,防火上の規定や居住環境に係わる規定もある。もし,耐震改修工事が大規模修繕と見なされれば,耐震性以外の既存不適格も是正しなければならない。そうなると,予算が足りないので断念せざるを得なくなるかもしれない。そして,地震で被害者が出る。

 それでは困るので,耐震改修促進法などで,取りあえず人命に関わる耐震改修を優先し,建築基準法が求める他の改善を緩和しているのである。他にもいろいろその種の措置はある。例えば石綿は平成18年の建築基準法改正で使用禁止になった。従って,大規模の模様替えを行う場合は,石綿は除去しなければならない。しかし,除去しなくても飛散しないように封じ込めたり囲い込んだりする改修も緩和措置として告示で認めているのである。緩和しないと,何もせずに石綿を飛散させるということになりかねないからである。

 法令や安全基準は厳格に守らなければならないと考えている人もいるかも知れないが,決してそんなことはないのである。総合的に考えた結果の緩和や斟酌があるし,裁判でも情状酌量がある。利用可能なコストや資源に限りがあるのであるから,杓子定規では,かえって安全性が損なわれるのだ。放射線量1ミリシーベルトを厳格に守ろうとしたり,BSE対策の全頭検査などがその悪例である。しかし,その錯覚には人間はなかなか気づきにくいということも自覚すべきと思う。基礎より上部構造の耐震改修を優先するというのは,専門家以外には分かりにくいのではないだろうか。