沖縄の地域係数 ー よく分からないものへの対処

■沖縄の地域係数は政治的判断

 信頼性に乏しいとはいえ,地域係数には一応の根拠があった。ただし,沖縄は別のようだ。そもそも河角マップに沖縄は載っていない。沖縄の地域係数はほとんど政治判断で決められたらしい。その事情について下記のリンク先に要領よくまとめられている。

地域係数の謎 ( 再掲 )
http://www.structure.jp/columns/column13.html

 学術的に沖縄の地域係数を求めようにも,古い地震記録が無い以上決められない。となると,政治判断しかない。この判断を非科学的と批判するのは筋が悪い。もともと科学的に決められない故に,政治判断しているからだ。

 この様な場合,一般的には,標準の1.0に一律にするが,それで安心かというとそうではない。何しろ,根拠がないのである。実は沖縄は本土より地震が起きやすく,1.2にする必要があるかも知れないのである。0.7も1.0も五十歩百歩だ。0.7よりも1.0がマシといいだすと,1.0より1.2がマシとなり,きりがない。よく分からない以上,どのように決めてもケチは付けられるのだ。

■地域差批判のようで低減批判

 地域係数に批判的な意見には,地域差を付けることを問題視するものがある。ところが,不思議なことに静岡県の独自判断の1.2という地域差は批判しないのである。それどころか称賛さえする。この種の意見は地域係数の「低減」という見た目の印象に惑わされているように私には思える。仮に沖縄を標準の1.0として,関東地方は割り増しの1.43(1/0.7)となっていたなら彼らは批判しなかったのではないだろうか。なぜなら,静岡県の1.2は批判していないからだ。しかし,標準地震力が1.43分の1ならば,全く同じことなのだ。

 定価を水増しして,割引すれば得したように錯覚するが,それと同じような錯覚である。錯覚が起こるのは,本来の定価が分からないため,相対的に考えざるを得ないからである。地震の定価とでも言うべき標準の地域係数1.0の大きさも実はよく分かっていない。そのため,小さい値を標準にすれば,他の地域は割り増しされ安全になったように感じ,大きい値を標準にすれば,低減され危険に感じてしまう。標準とは便宜的なものに過ぎず,何であろうと構わないにも係わらず,錯覚は生じる。よく分からない地震荷重のようなものではこの錯覚は起こりやすい。

地震荷重が先か,建物強度が先か

 沖縄の地域係数はよく分からないものであるが,それ以前に地震荷重がよく分からないのだ。耐震設計の悩ましいところは,そのよく分からない地震荷重(時刻歴地震動も含むが,ここでは等価静的荷重で説明する。)を設定しなければならないところである。分からない以上設定の根拠は大雑把にならざるを得ない。大昔は,地震荷重は考慮すらされていなかった。戦前の市街地建築物法で建物重量の0.1倍の水平力を考慮することになった。そして戦後に建築基準法が作られ,0.2と倍増したが,許容応力度も2倍になったので実質的な影響はあまりなかった。この地震力と許容応力度を共に2倍にするという一見,無意味な変更はよく考えて見ると耐震設計の実態が見えて来る興味深いものだ。以下にそれを説明する。

 建物の耐震設計の理屈上の順序は,先ず作用する地震力を決め,その地震力によって建物に生じる応力を求め,その応力が許容応力以下であることを確かめる。(正確には二次設計は少し異なるが,流れは同じである。)その際の,地震力や建物に発生する応力は自然現象として定まり,人間の判断の影響を受けるはずがないものである。人間の判断が入っているのは許容応力である。材料が壊れる応力度は自然現象として定まるが,安全率で除して許容応力度とする。安全率は人間の判断である。

 戦後に,地震力を倍にした理由は,地震学の発展で従来考えられていた地震力の2倍が作用することが分かったからではない。もしそうならば,建物の強度も2倍(厳密には短期応力は2倍にはならないので,2倍より小さくて良い。)にして安全を図らなければならないが,実際には,許容応力度も2倍にして,建物の強度はほとんど変えていない。この変更は自然現象の知見の修正ではなく,安全率の考え方の変更なのである。地震力のような短期的に作用する荷重に対しては,長期荷重の場合よりも安全率を小さくしても良いという思想に変わったのである。ただ,許容応力度を倍にしただけでは実際の建物の強度が半減してしまう。そこで,地震力も2倍にして建物の強度は変わらないようにしたのである。

 つまり,理屈上の順序のように先ず地震力が決まっているのではなく,建物の強度が先なのだ。それに合わせて地震力を調整しているのである。これは,建築が経験工学である事情を良く物語っている。建物は大昔から作られており,どの程度の強度にするのかは経験的なものだ。構造計算はその事実に合うように後付けで検証しているに過ぎないと言えば,言い過ぎだが,その側面はある。構造計算の建て付けを変更する際の調整代として地震力が使われたのだ。本来自然現象である地震は調整代には使えないはずであるが,幸か不幸か地震力はよく分からないので倍半分というスケールで調整できるのである。

地震被害を認めること

 このように地震はよく分からないものである。にもかかわらず,合理的に地震力は予想出来,それに対して安全に建物を設計しているという誤解が世間一般だけでなく建築関係者にもあるように思う。昔の震度0.2という雑な設計法では,地震力がよく分からないものであることが何となく実感出来た。ところが,最近は,応答スペクトル法という難しそうな数式で計算する場合もある。時刻歴応答計算ともなると,更に高度で,なにやら信頼性が高そう思えて来る。しかし,地震が建物に作用した結果の応答を精度良く計算しているに過ぎない。前提の地震は相変わらずよく分からないのである。

 この誤解が高じると,地震で建物が壊れない様に設計出来るし,壊してはならないという信念に至ってしまう。しかし,現実には地震力はよく分からない。最初に決まっているのは建物の強度である。その建物ならどの程度の地震に耐えられるかは科学的に分かる。それは即ち,耐えられる地震以上の地震なら壊れることも科学的に分かっているということだ。しかし,どの程度から壊れることを認めるかは科学的には決められず,人間の判断である。その判断は概ね経験的に決まり,時代と共に変化していく。

 この「判断」の結果は建築基準法等に反映されている。実務的には構造設計者は基準法に従い「後付け」の構造計算を行うだけでよいので,「判断」を意識することがない。ただ,最近は,重要度係数とか用途係数という概念が民間建築でも出てきて,設計者が耐震性能レベルを設定するように変化している。レベルを設定すれば,そのレベルを超える地震では壊れるということが認識しやすくなる。低いレベルの建物は,より高いレベルの建物なら壊れない地震でも壊れることがあからさまに示されるからだ。

 どんな地震が起こりうるか分かるほど現在の人間は賢くない。それでも,建物を造る以上,便宜的にでも決めざるを得ない。そして一旦決めてしまうと,あやふやで便宜的なことを国交省や建築専門家が保証しているかのような錯覚に陥ってしまう。陥ってしまうのは世間一般だけでなく,建築専門家もだ。その結果地震被害の度に,国や建築専門家の怠慢や責任が話題になる。しかし,それは買いかぶりというものだ。被害は謙虚に受け止め,少しでも被害を減らす努力は必要だが,的外れの怠慢批判や責任追及が改善に資することはない。