被害の受容

「防潮壁作っても浸水」東電社員が証言 原発事故刑事裁判 
 
巨大津波は予測できたか?

 原発施設の自然現象に対する安全性設計は、恐ろしく過大な責任を求められている。このよく知られていない事実を理解してもらうには,まず一般の建築物の設計者の責任について知らなければならない。

 一般の建物は,大地震や大風に対して耐えるように設計される。ところが, 大地震の類は極めてまれな現象なので、どの程度の頻度でどの程度の大きさのものが発生するかは、よくわからず、研究途上である。かつて、地震予知を目指した地震予知連絡会地震予知研究推進連絡会議は結局、実用的な成果を上げられず、地震調査研究推進本部に衣替えした。予知ではなく、それ以前の調査研究から出直しとなったのである。また「予知」という用語は決定論的響きがあるが、地震は確率的にしかわからないので、「予測」という用語に日本地震学会は改めるということも起こっている。

 かようにあやふやな現象を相手にして建築物の設計は行われる故、一般の人が期待するようなものではない。一応建築物は、設定した荷重に耐えられるように設計される。設計者が負う責任はそれだけである。しかし,設定した荷重以上の荷重が加わらないという保証は一切ない。というよりも、設定以上の荷重が加わることは想定内の事だ。稀にそういう事態になるが、それは仕方無いとあきらめているのである。

 もちろん、設定荷重は設計者が自由に決めて良いわけでは無く、法令等で定められている。法に定めらるまでの大筋を大地震について示すと,以下の通りだ。まず,大地震の再現期間を設定する。再現期間とはその大地震が発生する回数の期待値が1回である期間だ。再現期間が決まると,それに応じた地震の大きさが定まる。いわゆる100年に1回の大地震などといわれるものである。

 再現期間は,社会的合意によるもので,科学的に決まるものではないが,通常は建物の寿命を目安にしている。寿命中に1回程度遭遇する地震に耐えられればよいという考え方である。それ以上の地震に遭遇し,建物が壊れる可能性はあるが,稀だとしてあきらめている。なお,一般の建物では津波は考慮していない。津波対策は,立地や地域的な対策が必要で個別の建物で対応することは現実的ではないからだ。

 次に,想定した地震で建物に加わる荷重を決めるが,これは地盤条件や建物の動的性質で異なる。それを精密に求める方法もあるが,通常は略算法で求め,その方法が法規に規定されている。もちろん,精密に求める場合は略算法によらなくてよいという但し書きも法には書いてある。

 従って,設計者には,法令に従って設計する責任はあるが,それ以上の地震で建物が壊れても責任は問われない。さらに,古い建物は古い法令の小さな地震力で設計されていて,地震被害をしばしば受けるが,設計者が罰せられることはない。いわゆる既存不適格である。法は制定以前の行為に訴求しないからである。

 つまり,設計者は,法に定められた内容について責任を負うのであって,それ以前の地震力の設定には責任を持たない。それらは,いまだ結論のでない研究途上の事柄であり,常に変化発展しているからだ。

 これに対して,原発の場合は,再現期間や地震力の設定も個別の施設毎に設計者が行う。しかも,一般の建築物の再現期間よりもはるかに長い期間である。長いということは,根拠のデータも少なくよくわからないということになる。サイト近くの断層の掘削調査(トレンチ調査)のようなことまでして,地震発生の可能性を検討したりする。ところが,2011年の地震を考えればわかるように,巨大地震はサイト近くの断層の影響だけではすまない。太平洋沖の深い断層がどのようになっているかなど殆どわからない。さらに,津波の影響も考えなければならない。津波はサイトから遠く離れた太平洋の反対側で発生した地震の影響も受ける。そのような地球規模の調査は殆ど不可能であり,サイトの歴史的記録というあやふやな根拠しかないのである。それらは,さまざまな解釈のある研究途上の事柄である。

 さて,福島第一原発は,津波の被害を受けたが,それは,設計者の設定の誤りだったと断言することは出来ない。原発といえども,再現期間を無限には出来ない。仮に1000年という設定だったとして,あの津波が1000年に1回のものだったのか,1万年に1回のものだったのか,簡単には分からないからだ。千年単位の再現期間の自然現象についてある程度確実なことを確率的に判断するには,1000年の数倍の期間のデータが必要であるが,原発の歴史は100年もない。従って,確率的ではなく,発生メカニズムからも検討しなければならないが,地盤の破壊という複雑な現象については大したことはわかっていない。

 かくもわからないことについても原発の設計者は責任があるのだ。この状況を医療に例えると,治験レベルの治療結果についても責任を負うに等しい。治験は効果や副作用がよくわからないから行うもので,患者はそれを了解している。当然ながら,治験は小規模に行われ,いきなり市販されている薬並みに全国レベルで行われることはない。万が一被害が起こっても,小規模であり,了解済みということで免責される。

 原発が免責されないのは,大学の小出力試験研究炉とはけた違いに影響が大きいからだろう。万が一の被害は,福島第一程度の事故でも,いくつかの自治体が崩壊しかねない。原発は実用商業炉であり,治験には例えられない。

 以上のことから,方向性が真反対の二つの考え方が出来る。一つ目は,原発の設計者の責任は重すぎるので,一般的な設計者並みにすべきというものだ。実際に無理難題の責任を負わされているのが現状だ。私なら恐ろしくて原発の設計は出来ない。この場合でも原発を作るのなら,免責に社会的合意が必要だ。

 もう一つは,責任を負えないほど被害が大きい,あるいは被害が大きすぎて免責できないようなものは,行うべきでないというものだ。この場合は,行わない場合の被害との兼ね合いになるので,原発を止めた場合の被害について,社会的合意が必要になる。

 いずれにしても,被害を受け入れなければならず,いいことばかりの都合のよい話はない。