客観的評価基準のない世界の評価

浅田彰村上隆なら森美術館より横浜美術館で」
http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160129/

 多くの人は,芸術とは独創性が要求される,個人的な創造行為であると考えているのではないでしょうか。芸術家のステレオタイプとしては,自分の内から湧き出るものを表現し,たとえ食えなくなっても,世間に迎合したような作品は作らない世渡り下手が思い浮かびます。

 このような個人的な創造行為を重視する芸術家の典型例は,趣味の日曜画家です。どうせ売る気はないので,お客に迎合する必要はありません。自分の表現したいものを表現すれば良いですし,表現したいものがなければ絵は描きません。最初に張り付けたツィートのcdbさんが考える芸術家はこのタイプだと思います。このような我が道を行くタイプとは反対に,世間に迎合したり,逆に世間に反発し,奇をてらい世間の気を惹くというタイプもあります。このタイプは自分の表現したいものを持たないキワモノだと批判されているのだと思います。

 しかし,現実には,職業芸術家は昔からスポンサーの注文に応えて制作しています。自分の表現したい趣味も当然あるでしょうが,それだけではありません。現代の商業美術もスポンサーが重要な位置を占めています。そう言う「商品」も,後世になってスポンサーと無関係になり,普遍的な芸術価値があると評価されることがあります。ただ,それも,新しいスポンサーに代わっただけとも言えます。その評価が永遠に続く普遍性の保証はありません。

 いずれにせよ職業ならば世間に評価される事が必要です。浅田彰氏の村上隆像は,如何に世界に評価されるか(売れるか)を追及する職業芸術家です。自分の表現とはそのための手段に過ぎませんから,必要に応じて変えていきます。ただし,評価基準は定まっておらず,評論家や画商の批評は千差万別です。

 趣味の日曜画家と職業芸術家は対照的ですが,実在の芸術家の場合,両方の要素が混じり合っていて,単純には割り切れません。なぜなら,職業芸術家はスポンサーのニーズに応える必要がありますが,スポンサーが望むのは,世間一般が好むようなものでもあるからです。その世間一般が好むものは一概には言えませんが,重要な要素として芸術家が自分の表現をしているように見えることがあるので,また元に戻って循環します。つまり趣味の日曜画家の要素も職業芸術家に求められていて,だからこそ,この記事の冒頭に書いたような芸術家のステレオタイプがあるのでしょう。

 言い換えれば,人気商売でありながら,人気を気にするような芸術家は人気がないという,矛盾めいた要求があります。一昔か二昔前にTVに出ないミュージシャンというのが人気を博しました。「お客様は神さまです」という営業歌手よりも,「自分のやりたいようにやる」という方がアーティストっぽく,それが受けたわけです。

 込み入っていますが,「人気」を評価する世界はこういう特徴があります。評価基準が決められないのです。受けるか受けないかを予測するのは「勘」によるところが大きく,確実な方法がありません。例えばどんな「株」が儲かるかは原理的に分かりません。インサイダー取引などの違法な手段を使わない限り確実に儲かる方法は有りません。優良な製品を作る会社は客観的に評価出来ますが,その会社の株で儲かるかどうかの予測は至難の業です。

 浅田彰氏の文章は,自分が村上隆の作品をどのように感じたかも書いてありますが,世界にどのように評価されるかという予測が主です。しかし,科学の予測のような客観性はなく,信頼性では株価の予測みたいなものだと思います。専門的で高度っぽいことも色々書いてありますが,それが当たるのか外れるのか判断出来ません。仮に当たったとしても,単なるまぐれ当たりかもしれないという疑念は払われません。

 結局,基本は個人の評価であり,世間の評価もその個人の評価を寄せ集めたものですから,客観的にならないのです。多数集まれば平均化されて統計的に予測出来る客観性を帯びることもありますが,どうも,平均化されないように思います。個人の評価も集団の評価の影響を受けて,フィードバックループが暴走して「流行」が生じるからです。不安定な現象と言えます。

 本来は,個人の評価は集団からは影響を受けないはずです。趣味の日曜画家は自分の描きたいものを描いたり,自分の好きなものを観賞するだけですから,他者の評価について悩む事はないはずだからです。しかし,それほど純粋な日曜画家はまれで,大抵は集団の評価である職業芸術の評価の影響を受けます。本来は自己満足のための趣味なのですが,他者の評価は気になるものです。雑念に悩まされているとも言えますが,人間は社会の承認を求める動物ですから,人間らしいとも言えます。

 自分でも何を言いたいのか混乱してきましたが,ここまでを無理矢理まとめると,趣味の日曜画家と職業芸術家は繋がっていて明確に分ける事は出来ない,です。また,芸術を客観的に評価する基準もありません。こう書いてしまうと,芸術の評価は下らないもののようにも思えて来ますが,そうではないというのが一番いいたい事です。客観的ではないにしても,芸術から何かを感じることは紛れもない事実で,それを万人は無理でも,幾ばくかの他者と共有出来れば人間は嬉しいと感じます。いってしまえば,同好の士が「あれ良いね」と評価し合うのが嬉しいわけです。そして,この評価は芸術作品だけでは定まらず,状況次第です。状況の大きな要素に同好の士の評価があります。評価は状況で変わることは,浅田彰氏も次のように述べています。

しかも,観客をさらにうんざりさせるのは,村上隆がいかに辻惟雄の課題に応えながら日本美術史と真剣に取り組んだか,その成果を作品化するにあたってスタジオのメンバー全員がいかに一丸となって頑張ったかが,わざわざヴィデオまで使って展示されていることだ。それを見せつけられれば見せつけられるほど,観客は「そこまで頑張ってこんなつまらないものしかできないのか」と思うだけだろう。

 評価が状況で変わる経験は私にもあります。

 私は模写が大好きでした。綺麗なものや,面白いものを見ると,それと同じものを表現したくなるのです。上手く表現できると嬉しくなります。ですから,今でも似顔絵や物まねは好きです。ところが,私が子どもの頃の美術教育は,模写を軽蔑しているようなところがありました。他には無いオリジナリティがあってこそ芸術だというわけです。例えば単なる技術の訓練に過ぎない石こうデッサンでさえ,なにかオリジナルな表現が求められました。写真のように忠実に再現するよりも,荒々しいタッチとか重厚感などが評価されました。まあ,実際に石こう像を見て荒々しさや重さを感じているのなら,分からないでもありませんが,私はそんなものは感じませんでした。

 そんな私の石こうデッサンは周囲(美術部部員)の評価が低かったのですが,好きなように描いていたら,ある日「以前はつまらないと思ったけど,何か変わってきたね」と私のデッサンを見直すような言葉をかけられました。しかし,描いていたデッサンは全然変わっていません。変わったのは状況です。私が一向に,スタイルを変えないことも含めて評価されたような気がします。当時は自分のスタイルを持つということが評価されていたからです。おそらく,周囲が錯覚したのでしょう。でも錯覚であろうが,作者の意図と鑑賞者の感じ方が違おうが,感じてもらえた事は事実ですから私は嬉しくなりました。私も評価は大いに気にします。自己満足だけでは満足出来ないのです。困ったもんです。