役に立つ研究,役に立つ芸術?

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科学からの脱落

 中村桂子が『現代思想』8月号に「大型予算獲得競争を止め」ないと「権力と金力の中で愚かな競争をするという姿は続くだろう」と述べている。そして、漱石の「職業」と「道楽」を区分した講演を引用して痛烈な批判をしている。
漱石は、人のご機嫌を取るのが職業、自分勝手に好きな分量だけ行うのが道楽と区分し、科学と哲学と芸術は職業にはならず、道楽でなければ成功しないとした話しを紹介している。

 漱石の言葉は真理をついていると思いますが、「大型予算獲得競争」は職業の営業行為なのですから、職業を前提とするのなら止めるわけにはいきません。営業行為もやり過ぎはいけないと言う意味なら、別に科学に限らず一般の職業でもいえます。権力と金力の中で贈収賄の類のやり過ぎを行ってはいけませんから、中村桂子氏の警告はごく常識的な事と言えます。わざわざ常識的なことを警告しなければならないのは、科学者や芸術家は世間の常識を知らない子供のような存在だということなのでしょうか。 

 一般的な職業では、お客が「その商品は役に立つのか」と尋ねます。そして売り手は、お客にとって役に立つことを納得させられれば商品を売ることが出来ます。職業としての科学や芸術でも原則は同じですが、売るのは商品ではなくて自分自身である場合が多く、売買契約ではなく雇用契約に近くなります。お客というよりもスポンサーのような立場になります。現代のスポンサーは政府である場合が多くなり「その研究は役に立つのか」と尋ねます。さらに、売買契約は一瞬ですが、雇用契約は長期間に及びます。場合によっては、役に立つ成果がでるのは数世代後にもなります。

 政府が予算を出すのは、科学者の道楽心を満足させてあげる為ではなく、多数の国民の役に立つと予想するからです。では「多数の国民の役に立つ」とは、国民の道楽でもよいのかというと、究極的にはそのような気がします。ただ、通常は道楽ではなくて、「難病の治療に役立つ」とか「生産性の向上に役立つ」という類の事柄とされます。しかし、これは究極の目的なのでしょうか。健康や経済性は最終目的としての価値でしょうか。

 健康でお金持ちなのに不幸せな人も存在します。中にはお金に最終的な価値を感じて使わない人もいます。健康のためなら死んでも良いというような人もいます。しかし,大多数の人にとっては,何らかの消費に満足感を感じるのであって,お金はその手段に過ぎません。健康であることも、様々な行動が行えるから大切なのであって,行動に満足を感じています。健康やお金は満足を得るための為の手段と言えます。そして満足を得るのは道楽からです。

 最終的な満足を与える価値は人様々千差万別であって,最大多数が認めるものなど存在しそうにありません。例えば,科学者は「研究が行えること」に満足感を感じているかもしれません。美しい風景や芸術を鑑賞すること、ゲームに興じることなどもあるかもしれません。ゲーム性は遊びやスポーツだけでなく、職業としての仕事にもあります。収入を得るためだけでなく、仕事そのものに価値を感じる人もいます。これらは道楽と言った方がよいでしょう。別に科学や芸術だけが道楽ではないと思います。

 結局、最大多数の価値なるものを絞ることは出来ませんが、殆どの価値に役立つ手段なるものは存在していて、それが健康やお金です。政府は、個人個人の道楽の為に予算を使うことは出来ません。出来るのは、道楽実現に役立つ手段としての健康やお金を生み出す環境を整えることです。あるいは、多数の人が行うメジャーな道楽なら直接、支援することもありますが、マイナーな道楽までは面倒を見切れません。

 研究は極めてマイナーな道楽です。なので、政府が研究に予算を付けるのは研究者に満足を与えるためではなくて、その研究が他の大多数の道楽心を満足させる手段として効果が高いと認めるからです。しかし、どのような研究の効果が高いのかは殆ど予測不可能です。病気の治療に役立つなどは分かりやすい例ですが、数学や天文学などになると研究者自身も他の誰も効果を予測できません。

 ある意味で、効果が予測できるような研究は限定的で一般性のないつまらない研究であるとも言えます。実用性の高い部類になればなるほど,効果の予測も容易ですが,特殊で応用性に欠けます。一方で、基礎的な研究の成果になると,予想もしなかったような広い効果が期待出来ますが,文字通り予想は困難です。しかも,歩留まりが非常に悪いといえます。殆どの研究は役立たずのゴミです。にもかかわらず,価値ある研究は極めて大きな効果を長い期間に亘って発します。しかし、短期的にはほとんど役立たずの研究に見えます。

 つまり、役に立つのか立たないのかは考慮する期間によって違ってくることになりますが,超長期の効果は予測不可能です。そのような研究に「何の役に立つのだ」と尋ねても「分からない」としか答えられません。この種の研究は道楽の色合いが強くなりますが、そのスポンサーも道楽心を持っている必要があります。道楽心を持つには余裕が必要で、余裕はお金や健康に左右されます。お金や健康は短期的な役に立つ事柄で得られますから、いろんなことが混然一体となっているわけです。

 ここで趣を変えて、芸術について考えてみます。芸術家は自由人で政府の予算なぞには頼らないかというと,そうでもありません。歴史的にも芸術は科学以上にスポンサーを必要としていました。現代でも政府は文化芸術に予算を潤沢とは言えないまでも投入します。ただし,芸術家に「その芸術は役に立つのか」と尋ねたりはしません。芸術は目的であり,何らかの手段とは通常考えないことが多いからです。でも,政府がお金を出すのは芸術家の自己満足の為ではありません。その芸術に満足する多くの人々が存在するからです。場合によっては投資の対象にならないとも限りません。そう言う意味では研究への投資と同じです。

 ただ、どのような芸術が役に立つのかなどと予測して予算配分を決めたりはしません。そんな予測は無理なことは明白だからです。予算はほぼ評価が固まったものにしか付きません。アニメやオタク文化が外貨を稼ぐような状況になって初めて政府は予算を付けます。科学だって同じではないでしょうか。長期の予測は不可能なのですから。予測不可能なものを扱えるのは道楽心ぐらいのものじゃないかと。