芸術のメッセージ(一部ネタバレ注意)

語らなければ、伝わらない。のか?-(チェコ好き)の日記-
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/11/06/111821

 誰が書いたのか忘れましたが,40年ほど以前に「ポップアートはメッセージが多くて嫌いだ」という文章を見た記憶が有ります。確かに,現代アートはメッセージが多い印象があります。単純にきれいだとかなつかしい感じがするという情動に訴えかけるのではなく,文脈やら背景やら理性で読み解かなければならないのでうざったい,というような主旨だったと思います。ただ,別に現代アートだけでなく,昔の宗教画だってメッセージは有ります。イラストの類はズバリ,メッセージが併記してあります。演劇や映画も台詞のメッセージ付きです。むしろ純粋に視覚的な効果だけを意図した芸術の方が時代が新しく,数も少ないかもしれません。だから,美術解説が有るのでしょう。

 とはいえ,デュシャン以降の現代芸術のメッセージは難解というか衒学的というか観客を馬鹿にしているというか,そんな感じも有ります。わざわざ分かりにくくしているんじゃないと疑いながらも,分からないのは恥ずかしいと思ったり,観賞するのに疲れます。もちろん,芸術以外の学問の世界ではそんなことは当たり前です。難解な理論は分かりにくいし,分からなければ専門家としては馬鹿にされるでしょう。しかし,素人が理解出来ないからといって,専門家が素人(観客)を馬鹿にすることは有りません。一般向けの解説書では出来るだけ分かり安く説明してあります。

 イラストは言葉が加わると格段に分かり安くなり,作者が伝えたいことが伝わりやすくなります。映像情報に文字情報がプラスされるからです。ところが,現代芸術を解説されると,むしろ分かりにくくなる印象がないでしょうか。なんだか騙くらかされているような釈然としない感じです。実は騙しているとはっきり言った芸術家がいます。最近,亡くなられた赤瀬川原平さんです。この場合の言葉による解説は情報をプラスして分かり安くするものではなく,余計な情報をさっ引くためのマイナス要素なのです。余計な情報とは鑑賞者が持っている芸術鑑賞に係わる先入観や余計な知識のようなものです。これに邪魔されて生の芸術が見えなくなってしまうと原平さんは考えました。しかし,言葉で先入観を捨てて下さいと言ってもなくなるものでは有りません。意識すればするほど雑念は増していきます。そこで,芸術ではないという嘘で鑑賞者を騙して,芸術鑑賞に伴う先入観が作用しないようにしたわけです。

 この手法は,心理学の実験に似ています。心理学の実験では被験者には嘘の実験目的を言って騙すことがよく行われます。本当の目的を言ってしまうと,被験者は意識してしまい実験に悪影響を与えてしまうからです。目的の結果を得るためには被験者にはある心理状態になってもらう必要があり,そのためには嘘の状況を信じ込ませるのです。同様に,生の芸術を鑑賞してもらうためには,ある心理状態になる必要があって,その心理状態にするために騙すのです。赤瀬川源平さんの場合は「芸術鑑賞していない」という心理状態にしたかったわけですが,それに限らず他の心理状態にさせる場合もあります。騙すという程では有りませんが,通常の音楽のライブや演劇で観客を巻き込んだ雰囲気作りで,興奮や不安恐怖という心理状態に導くのは良くある事です。これが前衛的な演劇や現代芸術では本当に騙してしまうわけです。言い換えれば,芸術の舞台が拡大されたようなものです。演劇では劇場の舞台から観客席まで,さらにはチケットの届く自宅まで広がりました。美術ではタブローの中から,美術館の空間へ,そして街中へと。しかし,鑑賞者は自分が舞台に乗っているとは知らないわけです。

 騙すのは倫理的に問題があって,騙されたことを知ると怒ってしまう心理学の被験者もいます。同様に現代芸術の鑑賞者の中にも怒ってしまう人もいます。ある程度こういう人が出てくるのはことの性質上やむを得ませんが,事件となる場合も有ります。サプライズの演出も似たところが有ります。分かり安い騙しの場合は,種明かしでその意図は許容できないにしても理解は出来ます。ただ,現代芸術では種明かししてもなんだかよく分からん場合もあります。これは鑑賞者が鈍いのか,芸術家がダメなのか,両方の可能性が有ります。

 この種の騙しのメッセージとイラストに添えられるメッセージでは質的に違うところが有ります。イラストのメッセージはそれ自体が伝えたいものですが,騙しのメッセージは騙すための手段に過ぎず,伝えたいことは騙された結果の心理状態で観賞する「何か」です。ですから,騙しのメッセージをあれこれ解釈して,「伝えたいことは何なのだろう」と推測を巡らすなんてのは観賞としては全くナンセンスです。

 騙された結果何かを感じたのであれば,それははっきり分かる筈です。情動に直接訴えかけるものだからです。観賞とは本来そう言うものだと思います。それに対して,メッセージをあれこれ解釈して理解するのは理性の働きであって分析です。文学作品の様な場合だって同じです。文学作品ではメッセージを読み解かなければなりませんが,それは情動が揺さぶられるための準備作業のようなものではないでしょうか。取り扱い説明書を読み解いても芸術を鑑賞したとは言いません。でも,現代芸術の場合,滑稽にも取り扱い説明書を鑑賞をしているように見える場合が有ります。

 一つ例を示します。現代芸術でもなく美術でもなく,カズオ・イシグロの「私を離さないで」という小説ですが。作者が自ら語っている意図は,読者に子供から大人になる過程の感覚を追体験させることです。これは極めて情緒的な追体験です。そのための騙しの道具立てとしてクローン人間というSFっぽい設定を使っているわけです。ところが,クローン技術批判というような理屈っぽい読み方をする人がいます。そういう評論ではなくて,子供が大人の世界の公然の秘密を何となく知っていく感覚を大人も味わえる小説だと私は思います。潔く騙されればいろいろと味わえます。