芸術はつらいよ

現代アート展示会場にデリヘル嬢を呼ぶ」というクソみたいなことをやろうとしていた界隈が本当にクソだった   今日も得る物なしZ
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20160131/1454226318

 かつて,半世紀も昔のこと,ネオダダのハイレッド・センターは芸術を生ものと考えていました。美味しい料理も時間が経てば不味くなりますし,食する環境や状況によっても味は変わってきます。芸術の賞味も同じだと考えたわけです。綺麗だとか,気持ち悪いとか,変な感じであるという感覚はクオリアなので,言葉では説明は出来ず,実際に体験しないと分かりません。ところが,体験から受ける印象は状況次第で変わってしまいます。例えば,「これは美味しい芸術です」と美術館に展示してしまうと,もうそれは芸術の干物になってしまい味が変わってしまいます。

 そこで,ハイレッド・センターのメンバーは,「これは芸術ではありません」と嘘をついて,生の芸術を鑑賞してもらおうと企てたのでした。そもそも,芸術や美術館が独立して存在したわけではありません。大昔はそこら辺の景色や色っぽい裸体や変な状況を見て楽しんでいました。それを時を選ばずに味わえるように芸術作品として冷凍保存して美術館などに保管したわけです。でも,所詮,冷凍保存ですから,取れたての魚,と比べればどうしても味が変わってしまいます。

 その差はわずかかもしれませんが,ハイレッド・センターはその差が気になって,干物や冷凍食品倉庫の美術館から抜け出して,街中で新鮮な芸術を賞味してもらおうと無謀にも試みたのです。その手段として「芸術ではない」と嘘をついたのでした。「芸術」だと言ってしまえば,美術館で観賞するのと同じになってしまうからです。

 斯くして,前衛芸術が一時期栄えたのでした。しかし,長続きはしませんでした。嘘をつき続けることに無理があったのです。「芸術じゃないなんて言ってるけど,あれはね「前衛芸術」っていうんだよ」と瞬く間に見破られ,レッテルを貼られてしまったのです。そりゃそうでしょう。洗濯ばさみを体中に付けた奴が電車に乗ってくれば,頭がおかしいか,前衛芸術家だと見破られます。生の芸術を感じることが出来るのは最初だけです。そして,興味を持ってくれるのは暇人だけで,シノギで忙しい人たちからは「邪魔だからあっちいって」と追い払われ,退散したのでした。余談ですが類似の事はデリヘル嬢でも起こりえます。

 それに,わざわざそんな嘘をつかなくても,日常には芸術はあふれかえっています。TVには変な芸人が奇妙なことをしていますし,変なデザインの洋服や商品が普通に売られています。だれもこれを芸術とは意識せずに何かを味わっています。もともと芸術とはそう言う味わいを固定化しようという企てで,そう言う意味では前衛芸術もその範疇を超えていません。

 日常に潜む,様々な感覚を出来るだけ純粋な形で抽出し,固定化したものが芸術ですが,固定化した途端に元の感覚とは違ったものになってしまいます。その違いを意図的に発展させ,加工食品としたのが伝統的芸術です。一方,出来るだけ変化させない生ものにしようとしたのがハイレッド・センターですが,所詮無理がありました。それにそんな無理をしないでも,元の日常を味わえば良く,そういうわけで前衛芸術は衰退したのでした。

 時は移ろい今日では,前衛芸術はすっかり絶滅したかというと,どっこい,前衛芸術も前衛芸術家も健在のようです。ただし,今日の前衛芸術家は「芸術ではありません」と嘘はつかず,むしろ「これは芸術なのだよ」と訴えているようです。その点では,ネオダダ以前の古い芸術家に戻ってしまったと言えます。また,芸術宣言することで,無法行為を見逃してもらえる可能性も増します。かつての嘘つきハイレッドセンターは,その特権を自ら放棄したのと対照的です。

 以前から芸術家は社会性に乏しい変人という社会通念というか偏見があり,少々社会規範から外れた行為でも大目に見てもらえるという特権がありました。ただし,その特権には大きな代償が伴っていました。歴史的にまともな死に方をしない芸術家が多く,面白いものを見せてくれ,自ら破滅するのなら,法で裁くまでもないと思われていたのではないでしょうか。一般人は,しっかり芸術家を消費していて,甘いように見えて,実は残酷じゃないかな。好きでやっているのでしょうが,アウトローはつらいと思います。山賊も7人の侍も農民ほど割に合いませんね。