原発事故は「薬」にならない

 下衆なツイートと散々に叩かれていますが,気持ちは分かります。危険への警鐘を鳴らしても,だれも耳を傾けてくれなければ,「危険な目に遭わなきゃ気づけないのだろう」と私も思うこともあります。特に危険が取り返しのつく程度であれば,痛い目にあうのも「薬」といえます。

 おそらく,きむらとも氏も取り返しのつかない事故は困るので,「薬」として程ほどを期待して「被害のない軽微な事故」と言っているのでしょう。しかし,原発事故は取り返しがつかないほどの被害を与えることが問題点ですので,「被害のない軽微な事故」では「薬」に多分なりません。例えば,冷却水漏れなどの原発の軽微な事故は結構起こっていますが,原発を廃止しようという意見が大勢を占めるような変化は起きていません。さらには,福島第一原発の大事故でさえ,原発推進派の「薬」にはなっていません。

 もちろん,福島県大熊町双葉町の人たちには原発容認から否定に考えをあらためた人も多いと思います。被害を受ければ「薬」になりますが,遠くに離れて直接被害を受けないとそうでもないのです。これこそが原発の問題点と言えます。何事もメリットとデメリットがありますが,原発は大多数の人にメリットのみを与え,大熊町双葉町のような一部の人のみにデメリットをもたらすという不均衡があります。

 事故後4年以上経過しても,大熊町双葉町の人たちのほとんどが避難しており,町はがらんどう状態です。今後の帰還の目処は立っていません。実質上,町は崩壊したといってよいのではないでしょうか。驚くべきことに,このような被害でさえ,被害を受ける可能性のない外部の人の「薬」にはなりません。可能性のある原発立地地域の人たちでさえ,他所の事故は実感がないように見えます。

 実感するには,直接被害を受けなければなりませんから,実感して考えをあらためる人が多数になるには被害が広範囲に及ばなければなりません。それは取り返しのつかない事故ということになります。それでは無意味ですから,結局,事故という「薬」に期待するのは間違です。

 実感とは情動の作用で経験しなければ感じられませんが,考えをあらためるに必ずしも必要というわけではありません。瞬時に感じる実感とは違い,時間と手間がかかってしまいますが,理性と想像力を働かせるべきと思います。