安全神話は不滅

原発は安全」思い込みが主因…IAEA最終案 (読売新聞) - Yahoo!ニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150620-00050199-yom-sci

 IAEA原子力の平和利用の促進を目的とする機関です。そのことを考慮すると,報告書は言外に,「福一の事故は日本政府や東電の落ち度で起きたのであり,他の国も含めた原発自体の安全性に疑問を投げかけるものではない」と言っていると受け取れないこともありません。

 「思いこみ」というような落ち度の指摘や追及は原発以外でも行われます。例えば,旅客機事故の原因として,パイロットの落ち度が指摘される事があります。調査の結果,確かに落ち度が遭ったと確認されれば,パイロットの責任が問われますが,飛行機を廃止する根拠にはなりません。落ち度を無くすような対策を採ることで,飛行機の運航は続けられます。落ち度が会社ぐるみの場合,その会社の営業停止は有り得ても,他社も含めた飛行機輸送そのものが否定される事にはなりません。

 また,人間が係わる以上,落ち度を完全に無くすことは出来ませんし,落ち度がない不可抗力の事故も有り得ます。コメット機の疲労破壊のような今まで知られていなかった原因で事故になる可能性もあります。技術革新を行えば初期不具合が伴います。それやこれやで絶対安全はあり得ないので,事故が起こったからといって,飛行機を廃止せよとはなりません。少なくとも飛行機や自動車では「安全神話」を信じている人はいません。事故を了解して利用しているはずです。ただ,微妙なところがあって,それは後述します。

 では,どのような場合に廃止の議論になるのでしょうか。考えられるのは,対策しようのない不可抗力の事故が頻発するような場合です。誰かの責任に帰せられる原因が無くても,結果的に許容出来ない程事故が発生するのなら,その技術そのものに安全上の問題があると考えなくてはいけません。そのような未完成の技術は実用化してはいけないということになるでしょう。或いは事故の影響が破滅的に大きい場合も,認められないと考える人もいます。

 東電や政府の落ち度の追及は,東電や政府の対応の是非を問えても,原発そのものの是非の議論には繋がりません。原発の是非を問うのなら,誰の責任でもない不可抗力の事故を許容出来るのかどうかについて合意が必要です。絶対安全は有り得ず,事故は必ず起こりますから,それを許容するのか,許容出来ないので原発を止めるかという判断になります。

 しかし,事業者が「事故を受け入れてください」などとは,公式に発言するのは非常に困難です。それは原発に限りません。「飛行機は墜落することもありますが,飛行場建設を認めて下さい」という立地交渉は誰もしません。墜落することは誰一人知らない者がいない周知の事実なのに,表だって言われることはなく,暗黙の了解で事が進みます。そして,いざ事故が起きれば暗黙の了解は無かったかのように処理が行われます。

 私は,阪神淡路大震災震度6強(後に7となった)の一報を見て,被害が起きて当然と思いました。当時は震度6強とは大きな被害が発生するという定義だったのです。特に,木造建築や旧耐震設計の建物は被害があって当然とさえ言えます。そういうことを知人に話したところ「それは専門家の感覚で,一般人は決して被害があって当然とは思わない」と言われました。

 そして,その通りでした。震災後に旧耐震建築物に対する耐震改修促進法が制定されたのです。そこまでは対応できないと事前には考えていても,実際に被害が出れば何らかの対策は求められるのです。ただ,それにも限度があります。東日本大震災では大きな津波被害が発生しましたが,建築的な現実的対策は不可能です。根本的には都市計画的な移転という対策しかありませんが,それには大きな費用と犠牲も伴います。実際に移転したケースもありますが,移転しないケースが殆どです。この場合,津波被害は諦めて建築行為は続けられています。ただし,それは決して明言されません。

 おそらく人間は絶対安全だと思わなければ不安で行動出来ないのではないでしょうか。車を運転する時は事故を起こすことは忘れています。意識していればとても運転どころではありません。誰でも,飛行機事故が起こりうることを理屈では理解しています。しかし,実感はしていないように思います。それは,実際に事故に遭うと「こんな筈ではなかった」とショックを受け,二度と飛行機は利用しないと思う人が多い事から分かります。車で人をひき殺したら,もう運転したくなくなるのではないでしょうか。そう言う可能性があることは分かっていたはずなのにです。そう言う意味で,誰しも事故に遭うまではちょっとした「安全神話」を信じているのです。

 原発以外では,個人レベルでは取り返しの付かない事故は十分有り得ますが,社会的に取り返しの付かない事故は多くありません。ですから,社会的に飛行機や自動車が認められているのだと思います。ところが,原発事故では個人レベルを超えて,社会的に取り返しの付かない被害を受ける可能性があります。ですから原発が立地する市町村はそれを受け入れるかどうか十分考えるべきです。飛行機事故同様に,原発災害の訓練も行っていますし,保険もあるのですから,理屈では事故があることは分かっている筈です。しかし,実感がなく「安全神話」を信じていたのではないでしょうか。

 そこへ福一事故が起きました。この事故が「安全神話」を崩壊させるかに見えました。千年に一度という津波による事故でしたので,不可抗力とみなすことも出来ました。そして,不可抗力だから仕方ないと諦められる事故かどうかを考える良い機会だったのです。ところが,この千載一遇のチャンスに反原発派は,今まで通りに政府や東電の落ち度や責任を追及するばかりでした。結局,落ち度がなければ原発事故は起きないという「安全神話」はしっかり生き残っているなと思います。