商品を否定しているのではなく,宣伝手法を批判している

ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち
http://meigetu.net/?p=3065

 仲正氏はポストモダン思想を否定されたとお怒りのようですが,少なくとも私は個別の思想について言及しておらず,思想の評価基準がクリアでないと述べているだけです。評価基準の問題はポストモダン思想だけのことではなく,人文科学系の他の分野にも言えることで,仲正氏自身も認めています。見解の違いは,それを些細な事と考えるか,重大なこととして受け止めるかだと思います。私は後者です。仲正氏は次の様に述べています。

《Social Text》の審査体制が整っていなかったということであれば、その通りだが、いきなり「他のポストモダン思想も…」というのは飛躍である。“ポストモダン”という学派がある訳ではないし、先に述べたように、《Social Text》は、別に“ポストモダン”の代表的な学術媒体ではない。

 他のポストモダン思想も内容がないと決めつけたのではなく,そのような審査体制では内容がある論文まで疑われるでしょうと書いたのです。ルールの無い異種格闘技では勝ち負けの判定がつかないように,評価基準がクリヤでなければ,内容の有無も判定できません。特に,外部からその分野を見た時に分野全体の信頼性に大きく係わります。従って,些細な問題ではないと私は考えます。

文学のように人気投票でよい、というのは正気で言っているのだろうか?文学作品と、文学についての研究論文を混同しているうえ、文学作品の評価の仕組みもよく分かっていないようである。この人物は学者のような物言いをしているが、自分で論文を書いたことなどないのだろう。

 もちろん,文学作品と文学についての研究は違います。研究の評価は何らかの評価基準が有るべきですが,ないのなら人気投票するぐらいしかないね,という皮肉です。ただ,人気投票とは言い方を変えれば多数決であり,皮肉とばかり言えない面もあります。

 本来,研究の評価は多数決では決めてはいけないように,政治も議論を尽くして決着すべきですが,決着しないので,多数決を採用しています。あくまで次善の措置に過ぎませんが,何かを決める必要があればそうせざるを得ません。逆に,決める必要が無ければ,それぞれが勝手な意見を言ってりゃよいですが,そう言う分野はあまり社会に影響力がないと言えます。例えば,食品の安全基準などは,学術的に未解明な部分があっても決めないといけません。その場合でも分かっている範囲でもっとも妥当な決め方を探ります。哲学や思想ではそういう切実な要請がないのかもしれません。そうであれば哲学を分かっていない奴の口出しは無用という同好の士の閉じた社会であっても構いませんが。

 ポストモダン思想そのものの批判ではないことについて,ソーカルは次のように書いています。

われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。

 また,浅田彰氏はソーカルの批判を受け止めていて,次の様に述べています。

「今度の本は、それぞれの相手を本質的な点で批判しているとは言えないし、その批判の根拠となる科学主義も絶対とは言えない」と述べつつも、むしろ「ソーカル事件」の教訓の方を強調して、いたずらに難解ぶったポストモダンな「知の意匠」で読者を幻惑するのではなく、明晰にできることはできるだけ明晰に書くべきであるという当たり前の原則をあらためて確認している。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html