「プラシボ阻害薬」

「プラシボ阻害薬」ー 本の虫
http://cpplover.blogspot.jp/2015/05/xkcd-1526.html

プラシボ効果の作用原理についての研究が進んでいる。

その研究の成果を用いて、新薬を作成した。プラシボ効果阻害薬。

さて、臨床試験を行わなければならない。2つの被験者群を用意して、両方にプラシボを与え、しかる後に、片方には本物のプラシボ阻害薬を与える。そしてもう片方には・・・

・・まてよ

頭痛が痛くなってきた。

 プラシボ阻害薬とは面白い発想です。何故面白いかというと・・・。何故面白いかを解説するほど野暮はありませんが,わかりきった事をくどくど説明するのが私の習性だから説明します。

 先ず第一段階,両方にプラシボを与えます。このとき当然ながらプラシボだと被験者には知らせません。被験者の病気に効く薬の治験だと騙します。プラシボだと分かってしまうとプラシボ効果がなくなってしまい,この後でプラシボ阻害薬の効果を計るベースが無くなってしまいますからね。

 ただし,完全になくなってしまうかというと微妙です。被験者が実験者の言葉を信ぜずに,「ひょっとして効くかもしれない」と考える可能性もあるからです。でも,その効果は非常に小さいでしょうから,プラシボ阻害薬の効果も測定しにくくなります。従って,プラセボだと知らせないほうが良いのです。それに,プラシボと知らせても生じる効果はプラセボ効果と言って良いのかどうかも疑問です。プラシボ阻害薬の治験ではなく,プラシボと知らせても生じる効果の阻害薬の治験になるのでは,などと余計な悩みも増えます。

 ついでに言えば,何も与えない、何もしないでも効果があることがあります。自然に良くなるということです。従って,プラセボ阻害効果ではなく,何もしない効果の阻害効果を図っている疑いも残りますが,面倒なので無視しましょう。

 次の第二段階では片方にプラシボ阻害薬を,もう一方にプラシボ阻害薬のプラシボを与えます。さて,被験者にどういう名目で与えればよいでしょうか。当然ながら,プラシボ阻害薬を与えると言ってはいけません。そう言えば,第一段階でプラシボを与えたことがばれてしまうからです。せっかく騙したのに,第二段階でバラしたのでは元も子もありません。そこで,適当な名目で与えることになります。例えば,第一段階の薬で胃が荒れるのを防ぐ胃腸薬とかなんとか言えばよいでしょう。

 あとは,第一段階で与えたプラシボの名目上の効能の差が両方であるか確認すればよいです。何も問題は有りません。頭痛が痛くなるような事は何もありませんね。

・・・まてよ,私は何故面白いと感じたのか? 頭痛が痛くなって・・・。

 よーく考えて見ると,この治験には倫理的欠陥があります。治験目的を被験者に知らせることができないという欠陥です。第一段階の説明で述べたように,プラセボ阻害薬の効果を調べる治験と正直に知らせてしまえば,治験は成立しません。何らかの病気を持つ患者さんを被験者として,その病気の治療薬の治験と言わねばなりません。もちろん,そんな薬は存在しません。通常の治験でも被験者の半分には本物の薬を与えないことが倫理上の問題になります。とはいえ,50%の確率で本物の薬を与えられますので認められています。しかし,プラセボ阻害薬の治験の場合は,誰一人として本物の薬は与えられません。これは認められない可能性があります。

 プラセボ阻害薬の治験と言えば倫理上の問題は解消しますが,前述のとおり治験そのものが無意味になってしまいます。それに,そもそもプラセボ阻害薬を欲しがっている患者さんなんて存在しないでしょう。

 ということで,需要のないプラシボ阻害薬の馬鹿馬鹿しさというのが面白いわけです。「なんだ,そんなことか」と言われそうですが、最初からわかりきったことを説明するのがこの記事です。そうはいっても、それではあんまりなので、もう一つ追加しておきます。ウソの増殖性とでも言えばよいでしょうか。一旦ウソで虚構を作ってしまうと,さらにウソの上塗りをしなければならず,収拾がつかなくなってしまいます。「ウソはこれだけにしておこう」ということは出来ないのです。プラシボ阻害薬とは,その取り繕いのドタバタの面白さをどことなく感じさせるアイデアです。どんなにドタバタしても,どこかでつじつまが合わなくなってしまい,それが落語ならば笑えるわけです。現実なら悲劇になったりします。

 同じことがプラシボ阻害薬だけでなく,プラシボでも言えます。プラシボは現実に存在します。