三権分立と人格権 − 高浜原発差止

 私は政治的に反原発ですが,原発政策が違法だとは考えません。原発の是非は政治判断であって,正解は無いと考えています。例えば経済政策は結果論として成功か失敗かを言うことはできても,事前に正解を予測することはできません。経済政策に失敗すれば,選挙で国民が審判を下しますが,裁判所が裁く性質のものではありませんし,裁判所が経済政策の決定を行うこともありません。経済政策と原発は少し違うかもしれませんが、同じ国家事業の東京オリンピックはどうでしょうか。賛否両論があると思いますが,司法がオリンピック開催差止処分命令を出せるものでしょうか。

 これに対して,三権分立とは司法が立法や行政を裁くことを認めているのであり,問題無いという意見が有ります。そうだとしても,裁く根拠は法理であるはずです。裁判官の政治的主張にそぐわないからというのでは理由にならないのは当然です。従って,大飯原発や高浜原発の仮処分決定の根拠も「人格権」という法理に基づいていることになっています。

 ところが,この「人格権」は憲法に明文化されたものではなく,法学上の解釈のようなのです。明文化されていなくても,最高裁が人格権について言及した判例はあります。ただ,明文化されていない故にその適用範囲が曖昧という問題があるそうです。拡大解釈されるおそれがある注意が必要な概念だと言えます。

 「人格権」とは,個人の「人格的生存に不可欠なものを保護する権利」で,「人格権に基づく差止請求権」にも争いはあるものの認めた判例もあることから、大飯、高浜原発裁判もこれに基づいています。「人格権に基づく差止請求権」とは「不法行為に基づく差止請求権」よりも,不法性が大きい場合に認められるそうで,大飯原発の判決文にもその主旨が書いてありました。不法行為よりも不法性が大きいとは矛盾めいた表現ですが,要するに,明文化された法令違反でなくても,常識的な正義観念上,明らかに認められない行為という意味合いではないかと思います。つまり,明文化されていない違法行為を裁くのですから,誰が考えても明白に違法性があるものでなければならないということでしょう。

 となると,原発のように世論を二分するような問題で明白に違法といえるのかという疑問が生じます。樋口英明裁判官は,「明白に違法」とはっきり述べているわけですが,その理由は一時に極めて多数の生活に影響を与えるからというものです。そのようなものは,万が一の事故も許されずゼロリスクでなければならないという考えです。「一時に多数へ影響」と言う点が重要で,さもなければ,飛行機も自動車も人格権に触れる事になってしまいます。しかし、原発ほど,一時に多数の生活を脅かすものは他にないと言うわけです。

 これは私も同感で,それ故に反原発なのですが,あくまで政治的な意見です。飛行機は合法で原発が違法と人格権に基づき判断するには,違法になる「多数への影響」が如何ほどかの基準を示す必要があるのではないでしょうか。しかし,その種の判断は,多数意見で決めるざるを得ず、裁判官が法理に基づいて決められるような性質のものではないと思います。これに対して,科学的な判断や判決は多数決では決められません。専門家が客観的証拠と論理に基づき判断します。

 このように,原発不法行為よりも不法性が大きい「人格権」を犯すものか非常に疑問があるのですが,仮にそうだとしましょう。つまり,万が一にも事故を起こせば人格権を侵すとします。この場合,地震の発生確率だとか,工学的安全設備の信頼性だとか,技術的吟味は一切不要です。なぜなら,万が一の事故も起こさないことは吟味するまでもなく技術的に不可能ですから。

 にもかかわらず,判決では技術的理由が延々と述べられています。一般的には、技術的吟味を行う理由は基準を満たしていることを確認するためです。そして想定地震の基準があるのは,基準以下の地震では安全でなければならないけど,基準以上の地震被害は諦めるということです。万が一の被害も認めないというのなら,基準を決めるまでもなく原発は否定されます。

 ではなぜ不要と思われる技術的吟味をしているのでしょうか。上記の「万が一の事故も許されない。それは不可能だから,原発は認められない。はい終わり。」では素っ気なさ過ぎるからでしょうか。いや,万が一の事故も許されない理由,人格権に相当する理由など法的に吟味することはいくらでもあります。それをせずに,専門外の技術的吟味をしているのは何か思い違いではないかという疑いを払えません。

 裁判でも行政的判断でも,判断材料として技術的吟味の結果は用います。ただし,その部分は専門家の意見を求め,それを参考に裁判官や行政が総合的に判断します。安全に係わる判断の場合は,専門家の行う技術的判断をリスク評価と称し,行政の判断をリスク管理と称して区別しています。裁判でも指紋やDNA鑑定は専門家が行い,その評価をもとに裁判官が総合的に法的判断を行うのであって,裁判官が自らDNA鑑定の信頼性を判断することはありません。

 一般の建築でも、どの程度希な地震なら被害を諦めるかは社会的合意ですので,政治的判断になります。これは地震学者や原子力工学者或いは裁判官が決める事ではありません。次に被害を諦める確率が決まれば,その確率の地震の大きさを決めます。これは専門的見地から地震学者が決めます。政治家や裁判官には無理です。その地震までは,被害が生じないことは,技術者が確認します。地震学者や裁判官には無理です。以上の手続きの過程において,不備がなかったかは,裁判官が判断します。例えば,社会的合意を得る手続きが不十分で,一部の政治家の利権で決めていないか,また,手続きの決め方つまり立法に違法行為が無かったか、設計や施工は基準を満たしているかなどです。

 樋口英明裁判官は以上の判断を全部一人で行うスーパーマンのように見えます。でもスーパーマンというのは現実にはなかなか難しいようで,専門家から誤認があるという批判を受けています。

 もう一点疑問があります。「人格権」はあくまで個人の人格的権利を保護するものとされています。個人の権利という観点から見れば,原発は他のリスクより大きいということはありません。放射線の影響で癌になったり,移転を強いられたりすることは他の原因でも有り得ます。むしろそのリスクは原発の方がおそらく小さいはずです。原発が問題なのは,一度に極めて多数の人々に影響を与えると言うハザードが桁違いに大きい点で,そこが他とは違う事は樋口英明裁判官も認めています。つまり,地域の権利の問題であって個人の権利の問題ではないということです。ならば,人格権になじむのでしょうか。