「最優先すべきは命」なんて何も言っていないに等しい

 このところ,「命は何物にも代え難い」というようなフレーズを目にします。このフレーズは命と「何物」との比較のための判断基準で,「何物」を否定するために用いられます。例えば,「狂牛病の全頭検査には莫大な費用が必要だか行うべきか?」という問に対して「命は何物にも代え難い。お金にも代えがたい,よって行うべきである」という具合です。しかし,少し考えれば分かりますが,屁ほどにも判断基準になっていません。そのお金を別の用途に使えば,別の命を救えるかもしれないからです。結局,どの命を優先するかという判断基準でないと役に立ちません。本当はAという命とBという命のどちらを優先すべきかという悩ましい問題なのに,Aという命とお金を比べるだけで,Bという命を恣意的に無視しているだけです。恣意的なのですが,Bのことが意識に上らないようにすることができれば,なにやら解決出来たような気になるわけです。言い換えれば,Aを優先するという結論ありきの場合に,形式的に付け加えただけの根拠が「命は何物にも代え難い」です。「最優先すべきは命」などという言説は,何も考えていない場合が多いです。

 何も考えていない言説は,「Aという命とBという命を比べることは出来ない」とも言います。一つ一つの命はかけがえのないもので,比べられるようなものではないというわけです。だとすれば,すべての命を優先するしかありません。それが出来れば苦労はありませんが,身も蓋も無い現実はそれを許しません。いずれかの命を犠牲にせざるを得ず,だからこそ悩み多き問題であるのです。もし,すべての命を優先することが出来れば,犠牲的精神が称賛される理由もありません。犠牲とは命に優先順位を付ける作業です。実際に命を比べている状況は多く有ります。そして,その判断基準は生得的な場合が多く,それだけに意識されにくいと言えます。例えば,私の姉は「子供と自分の命のどちらかが助かるなら,子供を助ける」と言いました。特に,犠牲的精神が旺盛で,他者の犠牲になるような人ではありません。ただ自分の子供は別なだけです。これは麗しい母性愛であるわけですが,母性愛は個人差や教育との関係も少なく,生得的な要素が強いと考えられます。一方,「父性愛」という言葉一般的ではありません,男の場合は,自分>自分の子供>他人,という優先順位の場合も多く,個人差があります。

 ただ,姉の場合も2人の子供の内,一人を選べと言われると悩んだに違いありません。ところが,悩まずに,あっさり答えを出す人もいます。例えば男の長子を最優先するとかです。現代では非人間的に感じられますが,少し昔ならそれほどのことはありませんでした。マフィアの映画を見ていると,跡取りの男の子を非常に大事にします。そういう文化もあります。逆に,一夫多妻制度の貧困層では,女の子が優先される場合もあります。男の子は少数のボスになれる可能性が非常に少なく,女の子の将来性が確実だからです。

 このように,命の優先順位について慣習として根付いている文化もあります。いやあらゆる文化に根付いているはずですが,意識されないだけだと思います。文化とはトレードオフの問題の基準を与えるものであって,もっとも重要なのが,命のトレードオフ問題です。これに目を背けるわけには行きません。すべての命が永遠に生きることは出来ず,命を終える順番は大事な問題です。「子が親に先立つのは不幸であり不孝であるが,天寿を全うして逝くのはめでたいことである」などというのも優先問題の一つの回答ではないでしょうか。しかし,直視に耐え難いのも事実で,オブラートに包む手法も文化は考え出しました。お金と比べるようなやり方です。前述のように,お金とかで比べれば,命が大事に答えは決まっているわけで,判断のためには何の足しにもなっていません。ただ,結論が決まっているのならば,何となく根拠に基づいた判断のような錯覚を与えてくれる便利な道具です。

 では,命の優先順位がなぜ直視に耐え難いのでしょうか。次にそれについて考えて見たいと思います。