性自認、性同一性

LGBT理解増進法案

 LGBT理解増進法案の「性自認」を「性同一性」に修正すると報道されました。一方で、修正しても同じという意見のあり混乱は続いています。肉体的には男性の自認女性が女性として競技に出場とか、女湯に入ってくるのは、女性からすれば理不尽ですが、禁止すれば「差別」になってしまうという奇妙なことが海外では起こっています。

■差別とは

 これは、単なる区別と差別を一緒くたにしてしまった結果の混乱じゃないでしょうか。この点について考えるために、先ず、差別を私なりに明確にしようと思います。例えば、女性は腕力が無いという理由で、力仕事に採用しないのは差別です。女性にも力持ちはいるので、個人の能力を評価しなければいけません。しかし、男性用髭剃りメーカーが、CMのモデルに女性を採用しないのは差別とは言われませんし、女性下着のモデルに男性を採用しないのも同じです。この種の仕事の要件は男性や女性であることだからです。

 男女に分けるのは単なる区別ですが、関係のない区別で判断すれば差別になり、関係のある区別で判断すれば妥当な判別になります。注意点は、関係は個人の能力で判断しなければいけないことです。集団の平均では女性が腕力に劣るのは間違いありませんが、それは不採用の理由になりません。

■スポーツの性区分

 次に、スポーツの性による区分を考えます。この区分は、公平性のため設けられています。仕事の採用における区分は能力が基準以上であることが必要ですが、競技の女性区分は、能力が劣ることが必要です。パラ競技の障害程度による区分や、ジュニア、シニア区分なども同じです。 

 当然、肉体が男性の自認女性が女性枠に出場すすれば公平性は損なわれます。そういう問題(それだけではありませんが)が起こった結果、現在では、身体能力に関係が強いテストステロン値による区分になってきています。(身体能力とテストステロン値の関係については議論があるようですが。)スポーツの区分は実質的には性別ではないのですね。実際に可能かわかりませんが、テストステロン値が規定値以下の男性は女性枠に出場可能とするのが筋は通ります。女性枠に男性が出場できると考えるとおかしいかもしれませんが、女性枠ではなく身体能力の低い枠と考えれば特におかしくありません。このような区分なら、自認女性の問題は生じません。自認女性だから出場できないのではなく、テストステロン値が高いから出場できないだけで、差別でもなんでもありませんからね。

 ただし、能力による区分は、能力を競うスポーツと本来矛盾する*1ので、常に区分をめぐって揉めるという問題は残ります。区分の分け方次第で有利不利に影響しますからね。また、分かりやすい性別でないことに、釈然としない人も多いと思います。しかし、性別はそれほど分かり安くないのです。それが、現代で顕在化したのだと思います。

■銭湯の女湯と男湯

 次に、女湯を考えてみます。この区分が何の為あるのかは、実は、非常に説明が難しいです。単純に考えれば、女性が男性に裸体を見られるのは恥ずかしかったり不快だったりするからかもしれません。しかし、何故恥ずかしいのでしょうか。世界には裸族もいるのです。結局、文化・習慣というしかありません。そこに今までの文化・習慣にない自認女性が現れたのだから混乱して当然です。しかも、自認女性は今までの男女の区分を破壊したいのでなく、自分を女性枠に入れてもらいたいだけです。区分の目的である、異性と一緒は嫌で同性と入りたいという点では同じで、同性、異性の基準が違うだけです。

 ならば、スポーツのように区分基準を明確すればよさそうに思えます。他者が確認できない内心の自認などではなく、肉体的特徴で分けるのです。簡単に言えば、チンチンが付いていれば男性に区分されるとすればよいです。ところがです、この区分基準が妥当であるという根拠は多分ありません。スポーツの区分のような公平性を根拠には出来ませんからね。一緒になるのが嫌な相手が誰であるかというそれぞれの個人の主観しかないのですから。

 前述のように、これは文化・習慣の問題です。文化・習慣は、正しい悪いで判断できません。不快に感じる人が出来るだけ少なくなるよう多数決で決めるしかないでしょう。となると、少数派の自認女性の希望はかなえられなさそうです。

■差別問題ではない

 避けなければならないのは、正しい悪いという観点で決めることでしょう。「自認女性を女湯から排除するのは差別である」などという主張に巻き込まれて、差別にならない「正しい」区分は何かと考え出すと混乱するだけです。