命の優先順位

 この問題は,遺伝子レベルではあっさり説明が付いています。「もっとも子孫を残せそうな命が優先される」です。客観的にはこの説明で十分です。ところが,一個体,要するに自分自身の問題として考えた場合,解決出来ない問題が残ります。死の問題です。客観的説明における子孫とは遺伝子のことで,一個体のコピーではありません。自分の子供だって半分しか自分の遺伝子を持ちません。一個体である自分と自分の子孫は全く同じではありません。そこに齟齬が生じます。遺伝子レベルで説明されても,個体の意識は遺伝子を増やそうなどとは考えておらず,納得も出来ないし,慰めにもなりません。個体の死は連綿と受け継がれる遺伝子伝達作業の区切りに過ぎません。しかし,一個体としては永遠の終わりですから,重みが違い過ぎます。「命は何物にも代え難い」などという理屈を言い出せば,一個体はまさに他にかけがえのない唯一のものです。優先すべきは自分自身以外には有り得ないことになります。にもかかわらず,自分自身はいずれ消滅します。

 これは意識を持ち,将来のことを考えられる能力を持った人間の悲劇じゃないでしょうか。命の優先順位などと言うものを考えるのは意識です。遺伝子は意識のない単なる化学物質ですから考えることは出来ません。ところが,優先順位を実践することで繁栄するのは遺伝子であって,一個体はその恩恵に預かれません。一個体とその意識は使い捨ての犠牲者です。一個体の肉体は遺伝子の乗り物と言われますが,意識も肉体を乗り換えられるなら悲劇は生じません。残念ながら,乗り物の肉体とともに意識も消滅します。遺伝子の乗り物の運転手として奉仕して一生を終えます。そう言うものだと受け入れられるなら問題はありません。達観した人は受け入れられるのかもしれませんが,私程度の人間には死の恐怖がありますし,どうしてそんな恐怖を味合わなければならないのかという理不尽な気持ちにもなります。なぜ,受け入れられるように人間の意識は出来ていないのか,何かの間違いがあるのではないかとおもわざるを得ません。

 で,多分,間違いなのだろうというのが私の今のところの結論です。間違いというよりも,遺伝子にとっては繁殖能力を失った個体の気持ちは些細な問題なので,放って置かれてるといった方が良いかも知れません。個体としては些細ではないのですが。生物の体をみると,非合理でその場しのぎの設計ミスだらけです。ならば,脳の作りにもミスはあり,脳の機能の意識にも間違いがあって不思議はありません。つまり,命や死にまつわる悩み事は,設計ミスに起因するもので,悩みが解消される見込みはないと私はみています。死への恐怖は生きていく上で必要な機能ですが,死ぬ時は必要ありませんし,むしろ邪魔です。死ぬ時には無くなるように出来ていれば良いのにと思うのですが,現実はそうなっていません。

 仮に,意識について設計変更を行うとすれば,1個体で終わってしまうのではなくて,子孫に受け継がれるようにすれば,悩みは解消されます。ただし,別の悩みが出てくる可能性はあり,SFや不老不死物語ではその種の悩みが語られます。それに,自分がどんどん増えていって,本当の自分はどれだってことになります。長大な生物の歴史が解決できなかった設計ミスを私ごときが改善案を思いつける筈がないですね。それはともかく,輪廻転生や永遠の魂というものが現実になれば死の恐怖に限り無くなります。宗教では,それが真実だと言うかも知れませんが,私は信じられませんね。宗教の場合,単なる記憶のコピーではなく,肉体が無くても魂が存在する二元論だからというのが大きな理由です。忘れているだけかもしれませんが先祖の記憶もありませんし。

 話が変な方向にそれているようですが,命の優先順位を直視出来ないのは,意識の設計ミスという間違いだからというのが,私の仮説です。死の恐怖は必要な機能なのですが,不必要な臨死の時にも副作用として現れるわけです。だから,命の優先順位を考えると恐怖にかられ,目を背けたくなるんじゃないでしょうか。そうはいっても,現実は優先順位を求めてきます。沈没寸前の船から救命ボートに乗る順番は女性や子供からとかです。この場合,巧妙に人道的なオブラートに包んでありますが,なぜ女性や子供を優先するのかには,冷徹な計算を無意識にしているのかもしれません。たまには,それを意識する必要もあるんじゃないでしょうか。非常に難しく,微妙な問題である場合も多く,危険な結果になるかも知れないのですから,責任を自覚するためにも意識した方がよいのではないでしょうか。「命は何物にも代え難い」なんて屁みたいことを言うよりはマシだと思います。