世間の認知と見た目の問題 ー スノーボーダー遭難事件

痛いニュースのコメントは,スノーボーダーへの先入観と見た目の印象への反射的反応だけど

痛いニュース  無事救助の40代スノボ男女3人が号泣会見 「冬の山がこんなに恐ろしいところだと…」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1823918.html

 昔から,雪山遭難の度に無謀な行為と叩かれることが有りました。最近では登山者からスノーボーダーへとターゲットが変化しています。確かに,登山届けを出したと嘘をついてゲレンデ外に出たのは非難されて当然ですが,叩いている面々の興味の対象の殆どはドレッドヘア風の頭です。落ち度の登山届けといえば,御嶽山噴火の時の登山者も殆ど提出していませんでしたが,非難はされませんでした。もともと,よからぬ印象を抱いていた人種が遭難を起こしたので,それ見たことか」と反応しただけでしょう。この反応はくだらないように見えますが,危険な遊びをするコミュニティへの周囲の先入観や期待,そして人道的でお節介な行為と絡んでいて政治的要素があります。政治的に振る舞うのなら,コミュニティにとって無視できません。

■人道的救助といいながら費用を要求し,救助を断ることも許さないのは

 遭難が叩かれるのは,「所詮遊びなのに,周囲に迷惑を掛けやがって」という気分を引き起こすからです。しかし,海と違って,山の救助費用は本人に請求される可能性がありますので,それほど税金が使われるわけではありません。それに,登山届けの提出は条例で定められているところもありますが原則任意です。今回の新潟県は定めていませんでした。登山届けは乗船名簿提出同様に遭難時の救助を行い易くするためのものです。従って,自己責任で救助無用というのなら,提出しないというのも理屈では有り得ます。ただ,救助する側からすれば,人道上救助せざるを得ないという面はあります。この場合の救助費用には保険が効かないでしょうから,本人の負担の可能性が強くなります。そして,自己負担なら,別に大きな迷惑は掛けたことにはなりません。もちろん,技量もなく,装備も不十分な状態で遭難した場合の救助は困難さと二次遭難の危険も増しますので,救助費用を負担するから文句ないだろうとは単純に言えません。しかし,十分な準備をしていた場合はその違いは少なくなります。登山計画があれば捜索範囲を絞れるという違いはありますが,そもそも救助無用という相手に対して,人道上放ってはおけないとお節介に救助しながら,迷惑だというのもなんだか変です。それって全然人道的な感じがしません。でも,救助を断ったりしたら,世間はもっと怒りますね。

 救助費用の請求の問題は微妙なところがあると思います。救助は人道上行われるもので,遭難者から注文を受けて行う契約行為ではありません。海外では救急車の費用も有料のところがあるそうです。このため,救急車が来ても断る場合も有り得ます。異様な光景に思えますが,日本だって昔は貧乏人はお金がなくて医者を断っていました。さすがにそれは人道上いかがなものかというわけで,公的負担で医療や救助を行うようになった筈です。人道上放ってはおけないといいながら,救助費用を請求出来る法的根拠があるのでしょうか。請求されないとなると,無謀な登山者が増えて困るので「脅し」として請求するぞ言っているだけじゃないか,という個人的疑問があるのですが,どうなのでしょう?


■コミュニティと外部社会の持ちつ持たれつの政治的関係がある

 この種のお節介な人道的行為とそれを断る自由は微妙な問題です。ただ,現代日本の現実は人道的見地が非常に強いので,救助を行うのが当たり前で,登山者もそれを期待している筈であるという認識が一般的です。現実にも救助無用という変人は存在しないでしょう。少なくとも,登山届けを提出したならば,救助を期待しているという意思表示になると思います。この関係はドライな法的関係ではなくて,同一の価値観を有する小さな山のコミュニティの関係です。そこには,登山のマナーの様なものが存在します。こちらからお願いしたわけではないにしても,コミュニティ外部の救助を期待しているのだから,外部へ良い印象を与えるようなマナーに気をつけなさいと。

■コミュニティの外部社会からの認知にはファッションも影響する

 そこへ,異様な見た目の新参者が闖入すると,それだけでマナー違反のような気がしてくるのではないでしょうか。実際のコミュニティの内部でマナー違反と言われなくても,コミュニティに対する外部の人たちが持つ固定概念から外れるとマナー違反のように思われます。ハイヒールで山に入るのはコミュニティ内部でもアウトでしょうが,ドレッドヘアは別に自由でしょう。でも,コミュニティ外部の認識は違う場合があります。古い人間はドレッドヘアの山男をイメージしにくくなります。いや新しい人間だってコミュニティをイメージさせるファッションを積極的に作り出します。ある種のシンボルは古い新しいに係わらず作り出されます。ファッションは馬鹿に出来ないのです。 

■小さなコミュニティほど,ステレオタイプなイメージを持たれる

 ファッションも,世界が広がるとかなり自由になります。例えば,バックカントリーではないゲレンデ内でも事故は発生し救助されることはあります。この場合でもスキー場や周囲に迷惑を掛けます。事故の原因に無謀な行為があれば批判されますが,見た目だけで批判は受けません。近くの遊園地で遊んでいて事故に遭うこともあり,その場合も同じことが言えます。事故や遭難の起こりやすさは自然の中と遊園地では大きく違いますが,いずれにしても全く起こらないことは有り得ません。従って,事故や遭難を起こしたこと自体が批判されるのではなく,見た目も関係有りません。しかし,小さなコミュニティになると,そのコミュニティ当事者はともかく,周囲は固定的なイメージを持ちます。そのイメージと違うと違和感を感じ,場合によってはそれだけで批判すらしてしまいます。

■無謀か否かの印象もコミュニティや個人のイメージで変わる

 周囲の人間は素人ですから,そのコミュニティの知識も対して有りません。批判も的外れであることが多いですが,数が多いので無視出来ないわけです。一般的に危険な遊びはよく思われません。しかし,歴史を積み重ねると偉大なる冒険と認知されます。登山や山スキーは認知の程度が高い部類ですが,スノボはチャラチャラしたレジャーであって,冒険とは認知されていない可能性が有ります。認知された冒険という概念自体が矛盾めいたところがあって,実際には認知されていない新しい遊びほど冒険の要素が大きいものです。しかし,素人の周囲はそれを冒険ではなく迷惑で無謀な行為としか見ません。認知された遊びでも,行う人のイメージだけでそう思われることもあります。植村直己さんが遭難しても批判されませんでしたが,辛坊治郎さんは批判を受けました。批判した人は多分,無謀な行為だと思ったのではないでしょうか。専門家からみればその通りだったか知れませんが,その判断が出来ないヨットの素人も批判します。

■冒険は目的の危険のために避けられる危険は避ける

 唐突に話は変わりますが,冒険の魅力とは未知の危険への挑戦にあると思います。レジャーは可能な限り危険を減らした管理された環境で行うものですが,冒険は管理出来ない危険の比率が大きくなります。従って,管理出来る危険は可能な限り無くすように準備しなければなりません。冒険とは言わないまでも,自然環境でのスポーツも管理出来ない危険が増えます。かつて出入りしていたウインドサーフィンショップの店長は次のようなことを言っていました。「初めて(未知)の条件が3つ以上の場合は行わない。」上達するためには,未知の条件に挑戦しなければなりませんが,一つずつ行うべきで,多くても二つまでだということです。

■認知された危険は無謀とみなされない

 新しいスポーツはそれだけで未知の領域が広く,それが外部から無謀だと批判される要因でもあります。一方で,古くて歴史のあるスポーツでもエキスパートレベルになれば未知の領域は増えますが,批判はされません。何故かと言うと,世間に認知されているというだけの理由です。これは,自然相手のスポーツに限りません。エキスパートの行う極限の種目は危険も大きくなります。それだけに準備万端整えて競技に臨む必要があります。ド素人がいきなりオリンピックレベルに挑戦すれば,怪我や事故は必至です。ド素人ではないアスリートでも事故を起こしますが,世間は批判しません。これも認知されたスポーツだからです。

■認知されればお金ももらえるが,エンターティメント提供義務も負う

 オリンピック種目のような認知されたスポーツになると,税金の投入も世間は認知します。山の遭難救助や,環境整備に税金が投入されるのも登山が認知された遊びだからです。もし,新しいスポーツも税金の投入を望むなら,是が非でも世間の認知を得なければなりません。一旦認知されれば,それまでは眉をしかめて見ていた周囲の人も危険を冒す専門家を観賞して喜びます。自分では犯せない危険は認知されていなければ,迷惑な行為に過ぎませんが,認知されると称賛されるあこがれの対象になります。

 ただし,何でも喜ぶかというとそうではありません。ソチオリンピックモーグル伊藤みき選手の怪我は批判を巻き起こしました。エンターティメントを与えてくれなかったからでしょう。オリンピックといえども現代ではプロみたいなもので,世間という観客にエンターティメントを与えることが期待されています。

■エキスパートがエンターティメントを提供すれば,一般人の環境も良くなる

 レジャーに過ぎないスノボには世間にエンターティメントを与えなければならない義務はありません。自分の楽しみのために行うものです。全くの個人的楽しみなのですが,現代社会はそう言うものにも,福利厚生的に費用を投じています。登山道の整備や救助費用,市民プールの建設など色々あります。もし,スノボもそれに加わりたいなら世間の認知が必要で,そのための一手段として,エキスパート選手のオリンピックでの活躍が有力です。先ず,オリンピック種目になることが認知の第一段階ですが,第一段階を通過してもそれぞれの国で認知されるにはオリンピックでの活躍という第二段階に進まなければなりません。オリンピックでの活躍は多くの人にエンターティメントを与えるもっとも効率的な方法です。メジャースポーツを目指す方法です。

■一般受けしないことが好きな冒険家が一般受けしなければならないつらさ

 一方で,税金の投入など期待せずに,マニアックに個人の楽しみを追及するマイナースポーツの道もあります。意図的にその道を進むことはあまりないと思いますが,結果的にそうなってしまったように見えるのがウインドサーフィンです。世捨て人のように世間と隔絶し,遊びを楽しむドロップアウトが一時期,ウインドサーフィンの世界で話題になりました。これは,風次第の遊びであるため,サラリーマン的なサンデーセイラーでは十分に遊べなかったからです。生活の心配のない貴族でもなければこういうことは困難で,すぐに廃りましたね。他の世界でも似たようなことはあるでしょう。生活が出来なければ遊ぶ余裕も無くなります。歴史的には,冒険は生活の心配のない貴族やスポンサーの後ろだてがある人が行うものでした。そもそも冒険家は一般受けしない物好きですが,物好きなスポンサーと気が合えば一般受けしなくてもやっていけました。ところが現代では,税金という公的支援が必要で,広い世間に認知されなければ,苦しい状況になります。一般受けしないことが好きな冒険家が,一般受けしないといけないので大変です。

■個人は一般受けは考えないでよいが,業界団体は考えなければならない

 ウインドサーフィンは自分でやる分には非常に面白くて奥の深い遊びです。しかし,ヨットなどと同じで,見ているだけでは,誰がトップかも分からず,素人には全く面白くありません。波乗りやフリースタールという技を観客に見せる採点競技も有りますが,風次第で安定してエンターティメントを提供出来ません。スポンサーもつきにくくなります。というわけで,メジャースポーツになる見込みは少なく,マニアックな少数が楽しむ世界になってしまいました。最近では,カイト・ボードというさらに未解決の問題の多いマニアックな方向に進んでいるようですが,私はよく知りません。当事者がそれでよいと思っているかどうかも分かりません。ヨットみたいに,一般受けを気にしないでよい金持ちがしているのかも知れません。業界規模は小さく,殆ど個人の世界です。

 一方,スノボはメジャースポーツへの道を進んでいるようで,かなり成功しています。となると,見た目の問題も無視出来なくなります。もちろん個人がそんなこと気にする必要はありませんが,業界団体は政治的にいろいろ気にしなければならないでしょう。