不公正を許せない感情

 最近は緩和されましたが,年末年始は高速道路が渋滞します。渋滞している高速道路で、たまに路肩はすり抜けていく車がいますが、むかっ腹が立ちますね。路肩は緊急車両の為に空けておかなければならず、路肩まで渋滞してしまっては人命救助に影響を与えかねません。というのが建前の理屈ですが、それはあとで冷静になって考える事で,むかっ腹は衝動的な感情です。私が怒りを覚えている時には,他人の人命のことまでは考えていません。「こっちはルールを守って渋滞を我慢しているのに、ズルイ」と思っているだけです。小さな子供の「○○ちゃんだけズルイ」とさして変わらない感情です。

 ルール違反の路肩走行車を真似する輩がいないのならば、路肩の渋滞は生じません。たちの悪い1台や2台の車だけなら、緊急車両の走行に大きな影響は与えませんし、自分自身も被害を被ることありません。そして,実際にも真似する車は殆ど有りません。苦々しくは思いながらも、ルールを守る人が殆どです。別に実害は生じていないのです。だったら、広い心で路肩走行車を許せるかというと許せませんね。なぜでしょうか?

 もちろん,今実害がないからといって許してはいけません。許してしまったら,いずれルールが崩壊して実害が生じてしまうからです。「自分だけならいいだろう」という身勝手な考えは通用しないことは言うまでもありません。ただ,これは理屈の話であって,私が興味深く思うのは,そのような理屈に先立って「ズルイ」という感情が生じることです。それは何故なのかです。

 この「ズルイ追及」は、別に強制力のあるルール違反でなくても生じます。地下鉄の地上への出入り口階段は幅が狭く、上りと下りの各一列の幅しかない場合が多くあります。通勤時間帯の通行量の多い時は,上りか下りの通行量の多い方で2列を占拠してしまうと,反対方向の人が通れなくなってしまいます。反対方向の通行量は少ないとはいえ,これでは困ります。そのせいなのか,自然発生的に片側1列に並んで,反対方向の人のために空けるという暗黙のルールが定着しています。

 しかし,たまに暗黙のルールを破る人がいて,その場に居合わせると腹立たしい気分になります。高速道路の路肩走行違反と違って、暗黙のルールでしかないのにです。暗黙のルールを他者に強制する権限は何もなく、勝手に自分達でそう決めているだけですが、やはり腹が立つのですね。

 このような例は他にもあります。ルール違反が許せないというよりも,抜け駆けは許さんとう本性のようなものが先にあるような感じなのです。その本性を満足させるために,ルールがあとから作られたとのではないでしょうか。これは人間が社会的動物であるところから発していて,それなりの説明は既にあるのかも知れません。本性だとすると,良い面と共に悪い面もあります。公正,平等を求める感情は,抜け駆けを許さないとか,足の引っ張り合いに繋がることも多くあります。なにしろ,不公正の実害を考える前に「ズルイ追及」という感情が起きてしまうのですから,そういう弊害もあろうというものです。

 合理的に考えれば,実害の無い不正行為に怒ったり,罰を与えようとするのは馬鹿げています。また,実害のある不正行為に罰を与えても,損害を取り戻せるわけでも有りません。罰を与えることにも費用が掛かります。もちろん前述のように,罰は予防効果のためであると考えれば一応合理的です。ところが,罰の犯罪抑止効果はどうもはっきりしません。犯罪者には再犯者が多くて,罰の犯罪を思いとどまらせる効果には怪しいところがあります。一方で,地下鉄出入り口ルールのように,罰則もなく,そもそもルール自体に何ら根拠が無いにも係わらず,不正行為と感じたことをしない人はしないのです。そして,それが聖人君子だけでなく,多くの人の行動です。大抵の人は,犯罪から得られる利益と,犯罪の罰を比較衡量して合理的に判断しているわけではありません。犯罪は悪いからしないし,犯罪は理屈抜きで許せないと思うのが普通の人でしょう。

 「功利的・合理的判断」は,基本的に個人の利益を考えますが,一方で人間は社会的動物ですので,「共有地の悲劇」のような問題がつきまといます。路肩を走れば個人的利益が得られますが,大勢が同じことをすれば,大きな悲劇に至ります。これを避けるために「ズルイ追及」があるのかも知れませんが,こちらにも足の引っ張り合い,報復復讐の応酬のような問題があります。「ズルイ追及」に満ちた世界は鬱陶しく,窮屈です。両者の間の良い案配にしなければならないのでしょうが,これがなかなかの難問です。

 ここからは,全くの個人的偏見ですが,私は「ズルイ追及」はひがみ根性みたいで好きではありません。そして,大阪は「功利的・合理的判断」が強く,東京は「ズルイ追及」が強い印象があります。合理的な大阪人は,今でも個人的には大きな成功を納めますが,社会全体としては発展の限界に至ってしまったようなところがあります。才能ある大阪芸人は東京進出するというのもなにやら象徴的です。大阪にわずか2年ほど暮らしただけの印象によるあやふやな仮説に過ぎませんが,所詮,人間の考える合理的思考は不完全なのだと思います。「「ズルイ追及」によるやり方が上手く行く場合も結構あるようなのです。なんだか嫌なのですが。