直感的・感覚的な思考

美味しんぼの鼻血描写を見て「根拠のないデマ」と言うのは、頭が良いようで悪い
http://fukaitakaaki.hateblo.jp/entry/2014/05/11/191907

 頭が良い忙しい人は,このような言説は批判するのも馬鹿らしくて相手にしませんが,頭の悪い時間のある私はこの手の言説にも丁寧に反論することを旨としています。デマや詐欺はその内容に付いては議論するまでもなく間違いです。科学や政治では結論の出ていないことだからこそ議論が行われ,決着済のことについて議論は行われません。しかし,世の中ではオレオレ詐欺に騙される人も大勢いて,議論の余地のないことも説明して,注意喚起する必要は有ります。ニセ科学批判も同じような行為で,ニセ科学者にではなくて,騙される可能性のある一般聴衆に発信しています。

 では,逐語的に丁寧に批判していきます。

4月28日発売の小学館「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載された「美味しんぼ」が取り沙汰されている。
作中では、主人公が鼻血を出すシーンがあり、鼻血の主因は放射能にあると描写した。ネットでは「風評被害を助長している」と批判する人と「表現の自由の範囲」と擁護する人に分かれている。
本件について、私は批判派でも、擁護派でもない。

風評被害を助長している」という主張と「表現の自由の範囲」という主張は対になっていませんので,単純に「批判」と「擁護」という分かれ方はしていません。例えば私は,両方支持します。「福島県放射線で鼻血」という間違った主張をする自由も有ります。言論の問題としてみれば,主張もそれに対する批判や反論も自由です。それとは別に,主張による被害があれば損害賠償請求される可能性が有りますし,刑法に抵触する可能性も有ります。

 日本では,自主規制というよく分からないことが行われていますが,言論の事前検閲は有りません。刑法に抵触するからといって,予防的に出版を止めさせる事は出来ません。事後的に罰せられるだけです。「美味しんぼ」への批判も出版されたので事後的に行っているわけです。批判が表現の自由を侵しているというのは勘違いだと思います。

この件で一番の問題は「風評被害だ!」とネットで批判した人たちが、作品を知らない人たちにまで情報を拡散したことにある。風評被害をなくしたいのか広めたいのか、よくわからない。かくいう私もtwitterで本件を知った。

 「鼻血の主因は放射能にある」という主張は間違いであるという批判が風評被害を広める事はありません。「オレオレ詐欺注意喚起」がオレオレ詐欺を広めないのと同じです。模倣犯が増える可能性はあっても,被害者は減ります。 

上記の意見をTwitterで述べたところ、「デマを放置するのか」という指摘をいただいた。だが、デマを放置したくなければ、出版社になり訴えればいい話であり、Twitterなどで拡散することがデマの根絶になるとは思えない。むしろ、風評被害を拡大している。私が目にしたツイートには、問題のシーンに鼻血を描き足したものまであった。完全に祭状態である。話題になればこういう輩が必ず出てくるものだ。

出版社を訴えれば,言論的な批判が不要になるものではありません。詐欺師を捕まえて罰すれば,一般人への「オレオレ詐欺注意喚起」は無駄,ということは有りません。対処療法と予防法の両方が必要です。なお,予防法とは事前検閲ではなくて,デマや詐欺に騙されない知識を一般人が持つことです。

危険に科学的根拠なんていらない

主な批判的な意見に「根拠のないデマ」がある。
この意見には、二つの間違いがある。

まず一つ目の間違いは、「根拠があれば提示されるはず」と思い込んでいる点である。
国も電力会社も「絶対に安全」と謳い原発を建ててきた。だが、結果は知っての通りである。また、事故後、安全基準値を従来の80倍に引き上げた。これは世界でも類を見ない高い基準だ。これだけ基準値が高ければ、たとえ、福島県民の癌発生率が増えようが、「放射能が原因ではない」と言える。国は、人命よりも財源を優先したのだ。そんな彼らの言う「放射能による健康被害はない、安全だ。科学的根拠は無い」を信じるのだろうか。根拠があれば提示されるはずだ、と信じているのは、頭にお花が咲いているとしか思えない。それに、根拠が提示されてからでは遅いのだ。危険の根拠がないから安全、という論理では、命が危うい。それは、傍観者の論理である。
福島には、“根拠のない不安”を抱えて生活している人がいる。他県に移住した人もいる。移住した人に、「危険という根拠がないのに移住するなんて馬鹿げている」とでも言うのだろうか。ここが二つ目の間違いに繋がる。

この部分は全く論旨が乱れていますね。
 まず,批判者は「根拠があれば示せ。ないから示せないのだろう」と言っています。それに対して,「根拠が有っても示さない場合がある」とfukaihanashiさんは述べています。その例として国の発言を挙げています。この国の発言の是非については異論が有りますが,百歩譲って,取りあえず非だとします。つまり,国も根拠を示さず安全だと言ったとします。だからといって,根拠を示さず危険だと言って良い事にはなりません。fukaihanashiさん自身,根拠を示さない国の発言は問題だと思っている筈です。国が泥棒するのだから,泥棒して良いのだとい理屈は成立しません。

 また,全体の論旨とは関係有りませんが,「安全基準値を従来の80倍に引き上げた。」は事実誤認です。平常時の基準と非常時の基準の違いを理解していないだけです。さらに,安全基準値を引き揚げれば,がんが増えても放射能が原因ではないと言えるという理路は全く理解出来ません。安全基準値を引き揚げた結果,がんが増えたのなら安全基準値が妥当ではなかった可能性が高いと考えるのが普通でしょう。

二つ目の間違いは、「危険の根拠がなければ安全」と思っている点である。
安全と言われていたものが実は危険だったという話は過去に何度もある。今回の原発もそうだが、食品添加物も分かりやすい例だろう。本やテレビなどで添加物の危険性を知り、安心が薄れた経験は多くの人がしているだろう。今でこそ、添加物の危険性を多くの人が知るようになったが、10年前はそこまで関心は高くなかった。しかし、中には「添加物って、不自然で身体に悪そう」と思う人もおり、自然食にこだわった食生活をしている人もいた。この感覚は正しい。
「売られているから安全」「危険だったら売られないはず」という科学的・理論的な思考と「根拠は無いけど、なんだか危なそう」という直感的・感覚的な思考。未知な物質に出合った際、後者の感覚を持つのは健全だ。むしろ、科学や理論などで安全かどうかを判断するのは、理性が発達し過ぎた弊害ではないだろうか。揶揄して言えば、そんなものはただの頭でっかちである。
ちなみに私は、論理や直感をその場に応じて切り替えられる人が、本当の意味で頭が良いと思っている。

 まず,補足的な指摘ですが,「売られているから安全」「危険だったら売られないはず」というのは科学的・理論的な思考ではなく,ヒューリステックは思考です。それでも,「根拠は無いけど、なんだか危なそう」という直感的・感覚的な思考よりは有効だと思います。

 さて,この部分は,根拠の確からしさの程度を無視した詭弁です。安全と思われていたものが詳しく調べれば危険とわかったというのは,昔の安全の根拠は精度の低いものだったというだけの事です。時代と共に,精度が高くなり,小さな危険も見つけることができる様になったわけです。

 昔,安全だったものが危険だと言われる様になったのは,より小さな危険も気にするようになったからで,昔は大きな危険も見逃していたという事ではありません。昔は毒キノコのような急性毒性は気にしていましたが,発がん性のような危険は気にもしていませんでした。だからタバコは安全だと思っていたのです。しかし,科学によって,発がん性のような危険もわかるようになってくると,それも気になるようになり,煙草は危険となったのです。煙草には毒キノコのような急性毒性が有ったのだけど,見落としていて,最近になってそれがわかったなどということはありません。

 この人が言うような「直感的・感覚的な思考」では,毒キノコの危険程度のものしか検知出来ず,発がん性や低線量放射線の危険などは全く検知出来ません。これらを検出するには,数十年という長い期間にわたる科学的調査が必要になります。科学的手法が無ければ,決して知ることもなかったであろう低線量放射線の危険を,科学的手法を馬鹿にして「直感的・感覚的な思考」のみに頼る人が大げさに言いふらすのは実に皮肉な現象です。

原発事故による放射能汚染は、未知との遭遇である。「もしかしたら危険かもしれない」という感覚で動くのは、極めて正しい判断である。少なからず、頭で考える人よりは、生存確率は高まるだろう。

「もしかしたら危険かもしれない」という感覚で動けば生存確立が高まるというのは,危険が実際に大きい場合です。極小さな危険まで「もしかしたら危険かもしれない」と避けていれば,生存確立は小さくなります。例えば,交通事故に遭うかも知れないと一切の外出を控えると,生活できませんし,もしかしたら食あたりするかもしれないと一切の食物を避ければ,1月程度で餓死します。「もしかしたら危険かもしれない」と言う判断が正しく機能するためには,危険の大きさの妥当な見積もりが必須なのです。

 「直感的・感覚的な思考」による危険の見積もりは,毒キノコや猛獣や敵対する部族の危険程度しか検出出来ません。しかし,科学的手法を使えば,より小さな危険も検出でき,その大きさに応じた対応ができる様になります。その結果,小さな危険には小さなコストで対処することが可能になり,人間は長く生存できる様になりました。 

今回の「美味しんぼ」も、鼻血と放射能は関連性があるのではないかという強い皮膚感覚を元に描いたのだろう。その感覚を私は否定できない。そして、それを伝えようとした表現者としての作者もまた否定できない。

 繰り返しになりますが,科学的手法が無ければ知り得なかったであろう放射線の危険を,その程度を無視して過剰に感じて,その結果生存確率を下げていると思います。生兵法は怪我の元と言いますが,この種の人たちは,科学的知識や放射線の危険など知ることなく,素朴な皮膚感覚のみで危険に対処した方が長生き出来るのではないかとさえ思います。しかし,そういう考え方はいけませんね。科学的考え方も正しく知ってもらう希望は捨ててはいけませんね。

ここまで書くと、擁護派に見えるかもしれない。だが私は、冒頭に描いたように批判派でも擁護派でもない。擁護しきれないのは、過剰な表現が少なからずあり、それにより、風評被害をもたらした事実は否めない。ただ、先に述べたように、批判の仕方は賛同できない。風評被害を広げたにすぎないからだ。

前述に加えて,批判が風評被害を広げたという証拠は有りません。

蛇足だが、仮に美味しんぼ放射能の下りが事実無根だったとしても、専門外の人間による表現ミスや調査不足でしかない。だとしたら、注意を促すとかでいいのではないだろうか。美味しんぼを日頃読んでない人まで乗っかって、寄ってたかって批判するこの風土のほうに私は異常性を感じる。ミス一つ許されないのだろうか?

そのとおり,多くの批判者はうっかりデマを信じてしまわないように一般の人々に注意を促しているのです。その一方で,福島県などは,実害を受ける当事者ですから,出版者や作者に対して何らかの対処を求めているのです。専門外の人間による表現ミスや調査不足でしかなくとも,責任は生じます。