数年で変わる「既存科学の体系」

原発ニセ科学である」と一部で言われているそうです。「ニセ科学」という言葉は,公式の定義があるわけではないので,どのような使い方をしようが勝手ですが,大方の使われ方と異なる意味で使うと,意思疎通という面では障害になります。

 原発ニセ科学と呼ぶ人によっても意味合いは違うかもしれませんが,例えば早川由紀夫氏の次のブログを読んでみた印象では政治的意味合いが強いです。

http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-508.html
菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタ放射能安全を強調するクラスタは、かなりの部分が重なる。ニセ科学批判クラスタがこれまで攻撃対象としてきたのは、血液型性格診断、水からの伝言マイナスイオンホメオパシーなどである。既存科学の体系と対立する主張を批判する科学的な社会運動だと一見みえた。

しかしほんとうにそうだったのだろうか。科学の体系と反することを許さないも、科学の輝かしい業績を踏みつけにすることを許さないも、彼らの運動にとってつけた理由だったようにいまは思われる。彼らの真の理由そして目的は、現社会体制の維持継続を不安にさせる要因を早期につぶすことだったのだろう。

そう考えると、菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタが今回科学をかなぐり捨てて、やみくもに放射能安全を強調する側に立ったことがよく理解できる。原発こそが、ほんらい彼らがもっとも力を入れて批判すべきニセ科学だったはずだ。運転で生じる毒を始末するすべをもっていない技術なのだから。

ニセ科学批判の人たちは権威あるい当局と親和性が高い。その本質はもともと「御用」にあったとみられる。

 要約すれば,ニセ科学批判とは,既存科学の体系と対立する主張を批判する科学的な社会運動だと一見みえるが,実は現社会体制の維持継続を不安にさせる要因を早期につぶす保守政治運動であったとなります。その根拠として,既存科学の体系と対立する原発ニセ科学として批判しなかったことをあげています。

 この主張の前提は,原発が既存科学の体系と対立することです。当然,「既存科学の体系」とは何かが重要な論点になります。通常は科学のコミュニティの多数が認める定説のようなものを意味するかと思います。まだ認められていない議論の多い仮説の類は含まれません。これは,何となく政治的な権威や当局を連想させますが,異なるものです。「既存科学の体系」は立場としては保守かもしれませんが,政治の保守とは趣が異なります。政治的な権威,当局は政変によってひっくり変えるもので,保守と革新は相容れません。一方で,科学の革新は保守に取って代わるものでは有りません。保守を精緻にしたり,適用範囲を広げたりと,改善を行うものです。相対性理論は古典理論を否定したのではなく,精緻化しただけです。つまり,科学は積み重ねであり,「既存科学の体系」とは現在までの先人の成果です。「既存科学の体系」の尊重は,政治的な権威あるい当局の尊重とは無関係です。

 ここで,原発が既存科学の体系と対立する主張とは,危険なため避難させ無ければならない地域を安全だと言うようなことかと思います。さすがに,原発で発電可能という考えがニセ科学とは言わないでしょう。ところが,早川氏は最近この主張を撤回しました。避難の主張は恐怖症に罹っていせいであると。どうも,早川氏のいう「既存科学の体系」とは早川氏の個人見解だったようです。

 ニセ科学批判クラスタは科学をかなぐり捨て,政治に走ったと早川氏は感じていたようですが,どちらかと言えば,それは早川氏の方だったように思えます。「ニセ科学批判の人たちは権威あるい当局と親和性が高い。」という政治的勘違いが先にあったんじゃないでしょうか。「科学的に間違った情報発信をするから当局は信頼出来ない」ではなく,「当局は信用出来ないから,それに親和的な発信情報は科学的ではない」だったんじゃないでしょうか。なぜなら,「科学的ではない情報」とは「既存科学の体系に対立するもの」ですが,その解釈が数年で変わる筈がないからです。