不作為の罪

sivad ?@sivad 7月13日 『どうかみなさん、「データがないから何もしない」ということは、科学の悪のイデオロギーとしてとらえてください。』 / “環境の世紀VIII-環境学におけるデータの不充分性と意思決定(松原望)-” http://htn.to/yC5s4s

 この表現は曖昧で誤解を招きます。

「完全なデータがないから何もしない。」,「科学の説として確立していないからなにもしない。」というような不作為は,確かに場合によっては違法にすらなります。ただ,この場合の対象者は科学者ではなくて,行政です。従って「科学の悪のイデオロギー」とは筋違いでしょう。別に科学自体にそんなイデオロギーがあるわけでなく,科学を利用する側(政治,行政など)の問題です。

 一方で,十分な証拠がなければ科学の説としては認められないという科学の世界のルールもあります。しかし,世の中には科学で未解明なことの方が遙かに多いのであって,それでも決断しなければならないのが普通です。十分な情報がない中で判断せざるを得ないのが現実の問題です。それをしないのは,不作為になる場合があるということかと思います。

 しかし,全く情報がなければ,さすがに判断しようがありません。さいころで決めるしかありません。通常は不十分ながら情報はあるもので,その範囲で最良と思われる判断をします。不十分な情報で判断する科学的手法というのもあって,それは確率論です。

 水俣病では,有機水銀説を示すデータはそれなりにありました。にもかかわらず「完全には解明されていない」として対応が遅れたことが問題なのです。不十分ながら,被害を最小限にするもっとも良さそうな方法は推測出来たはずです。ここで,重要なのは,絶対確実な方法が分かるのではなく,その時点でもっとも良さそうな方法の推測に過ぎないということです。後で新たな情報が得られると方針を変える事もあり得ます。だから,この判断は非常に悩ましいのです。単純に良い方法が分かっているのではなく,ひょっとしたら間違っているかもしれないという不安に向き合わなければなりません。

 例えが悪いですが,ギャンブルのようなもので,絶対確実に儲かる方法は存在しませんが,もっとも良さそうな戦略はあります。「絶対儲かるとは分からないから降りる」のでは,それこそ絶対儲かりません。かといって,無謀な掛けをするのは破産に向かうだけです。情報と確率を元に定量的に判断しなければなりませんから,大変なことです。結果論で批判することは簡単ですが,その時点,その場で判断するのは容易ではありません。

 例えば,食中毒が発生したときに,どのような対応をするかは非常に悩ましいでしょう。安全第一だから,怪しい食品はすべて回収せよというわけにはいきません。先ず,怪しい食品がどこまでかという判断が必要になります。安全第一だからとすべての食品を回収すれば,食中毒が完全に防げますが,餓死者が出ます。また,食品回収すれば,関係者に被害が発生します。倒産,生活困窮などでの死者が出かねません。もっとも被害を少なくする判断は難しいものです。こういうことを言うと,被害者よりも産業を重視しているというそれこそイデオロギー的な反論が予想されますが,被害者の命も産業従事者の命も同等であるというだけでイデオロギーとは無関係です。被害者と加害者は別という反論もあるかもしれませんが、現代法は復讐法ではありませんから、加害者の命を持って被害者の命の償いをさせることはできません。それに、産業従事者の範囲は広く、加害者とは言えない人も多く含まれます。原発事故での避難措置も同様です。放射能被害を少なくするだけなら,広範囲(事故当初には日本が危ないという噂さえ流れた)の避難が良いですが,避難にも大きなリスクがあります。

 あるリスクを少なくすれば,別のリスクが多くなるというトレードオフの関係にありますから,様々な要因を総合的に判断しなければなりません。ところが,環境や安全の分野では,一面的なリスクだけで極端な対応がとられることがあります。BSE対策の全頭検査が良い例です。全頭検査はほとんど効果がない割に莫大な費用を要します。この費用を別のもっと効果的な安全対策に用いれば総合的にリスクが減らせたでしょう。全頭検査は一面のわずかなリスクを減らすために総合的なリスクを増やしてしまいました。

 水俣病では,チッソの排水を原因とする疫学的(統計的)データは十分にありましたが,無機水銀が有機水銀に変化する機序は不明でした。しかし,薬品の認可でも機序の解明は不要なのですね。薬が効くことが確かめられれば,効く機序は不明でも構いません。機序不明を理由に対応を遅らせたのは明らかな誤りです。
 
 CSの場合はどうでしょうか。超微量の化学物質が症状を引き起こす機序は分かっていません。それは対応しない理由にはなりません。超微量の化学物質が症状を引き起こすという疫学的証拠も殆どありません。これまで行われた調査や試験の結果からは,症状の原因が心因性(ノセボ効果)である可能性の方が遙かに高いのです。もちろん,十分とはいえません。しかし,不十分という理由で,心因性の対応を遅らすことは,水俣病と同じ間違いを犯すことにならないでしょうか。

 更に,水俣病では有機水銀説以外にも「有毒アミン説」も提示されました。当時の状況でもどちらがより確からしいかは判断出来たでしょう。魚が腐るのは水俣だけではありませんから,この説は当時としても非常に疑わしいものでした。このような証拠があるにもか関わらず,「有毒アミン説」による対応や治療を行えば,被害はさらに拡大したでしょう。

 CSでも超微量化学物質が原因であることは,もっとも信頼性がある負荷試験で否定的な結果が出ています。にもかかわらず,超微量化学物質が原因と仮定した治療を行えば,「有毒アミン説」同様に被害を拡大することになるでしょう。

 もちろん,腐った魚で中毒を起こす場合もあるように,超微量化学物質に反応する場合もあるかもしれません。ですから,これらを区別する診断基準は重要です。臨床環境医は心因性を除外する診断基準も作っていません。とりあえず心因性の診断基準はあるのですから,それから外れる症例を原因不明の疾患として扱うほうが,まだしも妥当ではないでしょうか。

 「不作為批判」や「予防原則」に基づく言説の多くは,一面的な価値観に基づく場合があります。反対の立場からも,これらの原則は利用出来る諸刃の刃ということに気づいていないのです。誰かが誤った行為を行うのを見過ごすのも「不作為」として批判できますし,誤りかもしれないとして何もしないのも「不作為」です。「何が起こるか予想出来ないから行ってはならない」とも言えますし,「止めると何が起こるかわからないないから止めてはいけない」とも言えます。
 立場が決まっている場合のこれらの原則が良く利用されます。どのような立場でも利用できるので,実質的になんの根拠にもなっていません。行うべきか止めるべきか,双方の得失を比較して判断しなければなりません。

 有機水銀説に基づく対応をとらない不作為を責めるだけなら,有毒アミン節に基づく対応をとらない不作為も責めなければなりません。超微量化学物質原因説に基づく治療を行わない不作為と心因説に基づく治療を行わない不作為も同じです。どちらの対応を優先すべきかは利用出来る根拠に基づくべきです。