科学信仰

福島のエセ科学者による科学信仰の罪
越智小枝
 http://ironna.jp/article/2471

 「実験科学派」と「症例重視派」について、第三者的立場から両者を批判しているような印象を与える書き出しです。しかし、読んでみると、ほとんど「症例重視派」の批判でした。

 そもそも、「実験科学派」と「症例重視派」なるものが実在するのかよくわかりませんが、被害者がいないとか、被害者がいても救済不要と主張している「派」はいません。どのような被害が発生しているかについて見解がわかれ議論があるだけです。これについては、科学の範疇になりますが、データが不十分で結論を出すのは拙速だとか、そうではないという論争があります。

 そうではないという意見の中には、科学的結論を待っていては、被害が拡大するというものがありますが、これはすでに科学的論争とはいえず、政治判断に踏み込んでいます。政治論争であるにもかかわらず、科学的論争であるかのように装っている「症例重視派」が存在し、それを越智小枝氏は批判しているのだと思います。確かにそういう実例を私も知っています。

 科学的結論が出ていなくても政治的判断で被害者を救済することはあるわけですが、科学的結論が出ていることしか救済できないと考えてしまうと、科学論争を装ってしまうことになります。それが科学信仰があるということでしょう。医学的に原因不明でも治療を受けられますし、保険も効きます。しかし、医学的に認められていないと症状まで否定されたと感じてしまい、原因を決めつけてしまうということは、化学物質過敏症の問題でもありました。

 原発問題は、ほとんど政治問題といえると思います。以前、原発事故による被ばくはほとんど健康影響はないのだから避難する必要はないと主張する人がいました。確かに避難による被害の方が被ばくの被害より確率的期待値として大きいのなら、避難しないほうが良いという判断はあります。しかし、そもそも被害の予測は難しいですし、万が一の被害の大きさを考えると避難したくなるのが人間の心理です。人間は確率的に判断しません。そして、そう考える人が多くなれば、居続けて生活するのも難しくなって、確率的にも避難が得策と変化してきます。要するに、人の思惑などが絡む複雑な政治問題だということです。

 私もそうですが、科学的に福島の被ばく被害を否定しても、政治的には反原発という人は多いです。一方で、被ばく被害がなければ原発に反対できないと考えているかのように思える反原発運動もあります。