昭和18年3月2日(「ソロモン海敵中突破」*1より)

 ムンダ・コロンバンガラ島の飛行場造成に食糧・弾薬欠乏。補給のため種子島少佐指揮の駆逐艦村雨と峯雲は2月下旬トラック島出航,3月2日朝ラバウル着。米を詰めたドラム缶を200本づつ,25mm機銃弾,缶詰など上甲板に満載,3月3日夕刻ブーゲンビル島へ向かう。ショートランド泊地に錨を下ろした両艦は,一日置いて3月5日夕刻連合軍哨戒機がガダルカナル基地に帰着した頃を見計らって,ショートランドを出港。30節の全速力針路120度で,ソロモン街道をコロンバンガラ島目指して突進。
 艦がコロンバンガラ泊地に着くや否や陸戦隊員が大発数隻で取り囲み,米を詰めたドラム缶をロープでつないだ侭艦側から海に突き落とす。大発はそれを引いて岸に向かう。両艦は午後9時30分入泊,10時30分荷揚げ完了出港。帰路は西側水道を通らず,泊地クラ湾を北上ソロモン街道に近い航路を選んだ。(運命とは本当に判らない。来た道へ引き返してクラ湾を北上しなかったらよかったのに。
 右2艦のショートランド出航は既に米軍に探知され,ガダルカナルの米軍艦隊に待ち伏せされていたのだ。レーダーによる米軍の遠距離射撃を受けて二艦とも沈没。半数に満たない乗員が一昼夜から二昼夜海上に漂い,その後コロンバンガラ島に辿り着いた。
 両軍の出会いは,探知機による米軍の確実な射撃に,両艦は最初空襲かと勘違いし何処から飛んでくる砲弾なのか判らなかったらしい。後日種子島少佐は大本営で当時の状況を報告,日本艦隊も探知機レーダーを早く備えるよう進言されたという。)