コロンバンガラ島へ

 だが、今日の砲撃はニュージョージアムンダ飛行場に対する、日本軍の最後の砲撃であったと思う。
 翌日夕方、山砲は破壊されたものと見られ、アランデルの海岸に埋設処置することになる。昭和15年10月仏印国境で受け継ぎ以後3年間、演習、射撃競技会、香港作戦、大陸の討伐戦等々苦楽を共にしてきた砲である。
 穴を掘り、土をかぶせ、挙手の礼をして別れる。淋しくひとりでに涙がこぼれる。眼鏡だけは埋めるに忍びず雑嚢に納めたが、終戦後ブインの海中に沈めた。
 その夜13連隊の歩兵を残し、吾等はコロンバンガラ島へ渡る。
コロンバンガラ島へ転進したものの,砲は無く,先行きの判断も不分明である。昼は敵機に夜は魚雷艇に悩まされ,情況は益々悪化してきたとだけは判る。命令受領の下士官の言うことが毎日変わって来る。「連合艦隊が盛り返し9月にはやってくる」「此処で玉砕だ」かと思うと「何を言っているんだ。ボーゲンビルからガ島迄の此処は半道だ。ガ島さえ転進した。コロンバンへは必ず迎えにくる」と言う。なかなか日本軍上層部の言われることは,次から次へといい話が飛んでくる。喜んでいる間にいつか飛び去っている。残るのは悪い惨めな結果ばかりがひしひしとやってくる。
 本当に思う。日本軍上層部は何を考え,戦場の最前線部隊に何をさせようとしているのか。ミッドウェーでやられ,飛行場欲しさにガダル飛行場完成。と同時に乗盗られ,又大きな犠牲を払いニュージョージア島,ムンダコロンバンの二飛行場も完成と同時に又乗盗られ,軍人の消耗もひどく飛行機,飛行士もない。これでは大和魂の軍人もなくなってしまう。もう少し軍人を大切に出来ないものかと不思議に思う。
 先日O兵長が「天皇を恨む」と言った極端な言葉はその後は聞いたこともない。兵隊は苦しみながらも矢張り日本軍人としての誇りを意識しているのであろう。ふと気がついてみるとO兵長の姿が見えない。潜水艦で先にラバールへ行ったものだろうか。
 兵の間に出てくる話は,この島での自活のこと,それまで生きると考えるのが間違いよ,のようなことばかりである。大和魂も人あってこそ物事が活きるもので,人を死なせてしまって何が出来るものかと思う。例えば,
  日本戦死  米軍戦死
19.11.8 サイパン玉砕 30,000 4,500
19.8.1 テニアン〃  10,000 400
19.8.10 グアム島〃  17,000 2,000
19.11.15パラオ島〃  10,000 1,500
20.3.17 硫黄島〃   28,500 5,500
20.6.21 沖縄島〃   110,000 7,500
ギルバ島タワラ 5,000
以上の如く日本軍は数倍以上の死亡者である。
 コロンバンガラ島警備についても火砲無く警備力もない。兵の間で自活生活,否玉砕,否転進と個人個人の意見が花を咲かせているとき,大本営,軍司令部,艦隊司令部では,それなりの自活,玉砕,転進について研究し考えられていたのだ。
 ガ島では18.2.1より18.2.7迄駆逐艦20余隻が同島に往復。奇跡的に一艦も損せず12000名の兵収容。亦空軍(?)も大協力をしている。
 だが今回は駆逐艦もそんな余裕はない。亦空軍も航空機はラバールに少数あるだけ。前回通りの駆逐艦,航空機がないとすれば,転進も出来ないのではないか。不安な日が続く。
その頃
18.8 下旬 陸軍中将吉村正義は軌道舟艇部隊司令官としてエレベンターに着任。
18.9.4 艦隊司令部へ調査結果意見書提出。
18.9.18 ブイン付近出発地に舟艇隊と大発併せ110余隻を基幹とする機動舟艇部隊編成完了ということで,一応大発にて転進の輸送準備がなされていた。然し戦況次第ではどう変わるか判らない。
 ボーゲンビル島ブイン基地集結の110余隻の舟艇部隊は,基地兵の見送りを受け各隊毎に出発。チョーセル島スンビー基地に向かって前進。内1隻はエンジン故障で部隊よりおくれ,やっと海岸近くの珊瑚礁迄辿り着くが敵機の銃撃を受け炎上。やっと珊瑚礁を歩き,チョーセル島に辿り着き,スンビー基地まで5日間歩き続けて追いつく。