調合強度の確認 - 盲腸規定

 公共建築工事標準仕様書のコンクリート工事には、次の規定がある。

6.3.2(ウ)(d) 調合強度の確認は、材齢28日の圧縮強度による。

 この「確認」を具体的にどのように行うのかは不明である。通常、確認と言えば、試験を行う。ところが、コンクリートの強度を確認する試験には、構造体コンクリート強度や調合管理強度の規定はあるが、調合強度の試験の規定はない。と言うよりも、コンクリートの試験で調合強度より下回っても別にかまわないのである。

 一般の読者のために、調合強度とは何かを説明すると次のようになる。コンクリート工事を行う施工者がレディミクストコンクリート工場(生コン工場)に注文する時の要求性能の一つが「調合管理強度」*1である。しかし、調合管理強度を目標に調合を行うと、平均値が調合管理強度になる。つまり、50%が不合格になってしまう。そのため、不合格率を小さくするよう上乗せした強度で調合する。それが調合強度である。これで試験を行えば、50%が調合強度以下になるが、調合管理強度はほぼ上回る。

 つまり、調合強度とは、注文者の要求性能を達成できるように、生コン工場の都合で設定するものだ。極めて、バラツキの少ない製造管理が可能なら上乗せ強度は小さくて済むし、そうでなければ大きくしておいた方が安全である。本来、注文者が指定する必要もなければ、確認する必要もないものである。

 実際に確認しようすると、調合強度の値は、生コン工場に尋ねなければ分からないのである。公共建築工事標準仕様書の調合強度の値の規定は、次の通りで全く具体性が無い。

6.3.2(ア)(c) 調合強度は、調合管理強度に、強度のばらつきを表す標準偏差に許容不良率に応じた正規偏差を乗じた値を加えたものとする。

 以上のことから考えれば、「確認」とは生コン工場に調合強度をいくらにしたか尋ねることと考えるしかない。では尋ねると、どんな嬉しいことがあるかというと、特に無い。個人的見解を言えば、調合強度に関する規定は仕様書に定める必要はない。おそらく、レディミクストコンクリートが登場する以前の現場練コンクリートの規定がそのまま残ってしまった盲腸のような規定ではないだろうか。現場練の場合、施工者は、自ら調合して作るので、発注者の監督もプロセス管理として調合強度の設定値の確認をしていたのだろう。

 ちなみに、日本建築学会のコンクリート工事の標準仕様書JASS 5には、調合強度の確認の規定はない。ところが、不思議なことに、調合強度の設定の仕方は詳しく書いてある。

5.2 b. 調合強度は、標準養生した供試体の材齢m日における圧縮強度で表すものとし、(5.2)式及び(5.3)式を満足するように定める。調合強度を定める材齢m日は、原則として28日とする。

 F≧Fm+1.73σ(N/mm²)
F≧0.85Fm+3σ(N/mm²)
ここに、F:コンクリートの調合強度(N/mm²)
    Fm:コンクリートの調合管理強度(N/mm²)
    σ:使用するコンクリートの圧縮強度の標準偏差(N/mm²)

c.(略)

d.使用するコンクリートの圧縮強度の標準偏差は、レディーミクストコンクリート工場の実績を基に定める。実績がない場合は、2.5N/mm²または0.1Fmの大きいほうの値とする。

 

 確認しない調合強度について事細かに定義しているのは何故だろうか。実は、日本建築学会の標準仕様書全般にそういう傾向がある。学会の仕様書制定のメンバーには、材料メーカーの委員も参加していて、コンクリート工事では生コン工場関係者が関わっている。そのため、作る側の視点が強く出ている。調合強度をいくらに設定するかは、生コン工場としては自分たちの仕事なので、しっかり決めておきたいのだろう。

 一方、公共建築工事標準仕様書の方は、国交省が工事発注や監督する時に使う為に作っている。いわば、買う立場の視点で作られている。本来、仕様書とは、生産者に対する要求事項や、発注者の監督が確認する事項を記載した注文書である。生産者が生産する際には、仕様書以外に自分たちが作った膨大な基準類が必要になる。仕様書や設計図だけで作ることは出来ない。

 建築学会の標準仕様書は、作る立場の膨大な情報が掲載されており勉強の参考書にはなる。ただ、大部になってしまっているため、請負工事の契約書類としては使いづらい。そのため、実際に使われるのは公共建築工事標準仕様書が多い。余計な情報がなく簡潔に要点だけ記載されている。ただし、その中にも、盲腸のような規定が残っているわけだ。多分、他にもあるだろう。

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*1:正確には、注文は「呼び強度」で行う。調合管理強度は設計者が必要とする任意の値に設定できるが、レミコン工場は、JIS規格にある3N/mm²刻みのコンクリートしか製造していない。そのため、調合管理強度より大きい呼び強度で注文する。なお、呼び強度は製品の記号であり単位は無い。単位を付けた量にする場合は「呼び強度の強度値」とややこしい名称になる。

被相続人 - 反対の反対

 前の記事で触れた改正建設業法をみていたら、違和感漂う奇妙な言葉に出くわしました。
 
被相続人

 意味は、「遺産を残して亡くなった人」だそうで、何故そういう意味になるのかは、例えば次のリンク先に書いてあります。

「被相続人」とは亡くなった人のこと。 初心者でも分かる相続の登場人物の専門用語を分かりやすく解説


 そこの説明では、「被」は「~される」という受け身の意味を表すので、「被相続人」とは「相続される人」になるそうです。確かに、「土地が相続される。」などと言います。この場合、相続されるのは土地ですから、「被相続品」とでもいうのでしょうか。

 このことから類推すると「被相続人」とは、人間が受け渡しされるかのような人身売買めいた響きを感じますが、そういう意味ではなくて、何故か「遺産を残して亡くなった人」なんですね。亡くなった人に受け身の意味合いも持たせると、「遺産目当てに殺された人」みたいになって、今度は、犯罪めいた響きがしてきます。

 もう一つ「被承継人」という言葉も法律にあるようです。「承継人」とは「受け継ぐ人」で、「被承継人」とは「受け継がれる人」です。これも人身売買的意味ではなくて、「厄介な事を誰かに受け継いでもらって、肩の荷が下りた人」というような意味です。少々余計な意味を付け加えましたが、「受け継いでもらった人」だけだと、渡す人、受け取る人、受け渡しされる人の三種類の解釈が可能なので、限定する都合です。言葉は微妙ですね。

 さて、人身売買や犯罪の件は別にして、「譲る」に「被」を付けると、「譲られる」になるのは当然ですが、さらに「譲られる」に「被」を付けると「譲る」に戻るのかという大疑問があります。「譲る」の受け身が「譲られる」で、そのまた受け身が「譲られられる」で、元に戻って「譲る」になるのでしょうか。どうも私が使ってきた日本語とは違います。私は、「譲られられる」なんて表現は聞いたことがありません。

 「譲る」は能動的な意味合いがあり、その受動形の「譲られる」とほぼ同じ意味の「貰う」という言葉があります。「貰う」にはもともと受動的な意味合があって、この受動形は「貰われる」ですが、「「譲る」という意味にはなりません。少々混乱してきたので、具体的例で整理してみます。

バレンタインデーの例

「アリスがボブにチョコを譲る。」の受動形には二つあります。「ボブがアリスからチョコを譲られる」「チョコがアリスからボブに譲られる。」です。

では「ボブがアリスからチョコを貰う」の受動形はどうでしょうか。「チョコがアリスからボブに貰われた」はありますが、「アリスがボブからチョコを貰われた」は意味不明です。

 なんとなく分かってきましたよ。反対の反対は賛成かもしれませんが、受働の受働は能動にはなりません。「薄薄緑」が「深緑」にはならないようなものです。同様に「被被害者」も「加害者」にはなりません。多分、刑法にもそんな言葉は無いと思います。調べたわけじゃありませんが。

 つまり、こういうことです。「反」や「逆」のような言葉は方向性を反転しますが、「被」にはそういう働きは有りません。能動的な行為を受ける受働側を表すだけです。受動的な行為を受ける側はありませんから「被」を付けることは出来ないのです。「被相続人」とは、勘違いの産物というのが私の結論です。ところで、先ほど「貰われる」という言い方がありました。これは一見、受働の受働みたいに見えます。

 そうではないことは、「アリスがボブからチョコを貰われた」という言い方がないことから分かります。アリスとボブの関係では、アリスが能動でボブが受働です。従って、受働のボブに「被」を付けて能動のアリスを表すことは出来ません。でも、アリスやボブとチョコの関係では、アリスやボブが能動で、チョコが受働です。よって、チョコを主語とした「貰う」の受働表現はあります。

 こんなどうでも良いことをあれこれ考えていると、言葉っていい加減なところもあるけど、緻密なルールもあるのだなあと感じます。緻密なルールは暗黙知なので、全然意識にのぼりませんが、ルール違反センサーが違和感を発報するんですね。

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悪文 - 令和元年6月12日公布 改正建設業法

 法令関連の文章が分かりにくいのは万人の知るところです。別に嫌がらせで分かりにくくしているのではなくて、分かり安さを犠牲にしても、あいまいさを避けるのが重要だからです。なので、瞬時には理解できなくても、時間をかけて読み解けば、意味は分かるようになっています。普通はね。

 残念なことに、逆にあいまいになっていたり、解説なしでは解読不能な場合もあります。以前にもこのテーマで記事を書きました。

この点検を実施しない場合は,この点検を実施をしなければならない

 世の中には、法令の解説書が数多く出版されています。このことは、法令だけ読んで理解できる人は少ないということを表しています。法令とは、分かっている人が確認のため読むもので、分かっていない人が読んで分かるようには書いてありません。

 さて、今年の6月に改正建設業法が公布されました。この中にも分かっていない人が読んでも分からない例がありました。次の条文です。とりあえず読んでみてください。

第二十六条の三 特定専門工事の元請負人及び下請負人(建設業者である下請負人に限る。以下この条において同じ。)は、その合意により、当該元請負人が当該特定専門工事につき第二十六条第一項の規定により置かなければならない主任技術者が、その行うべき次条第一項に規定する職務と併せて、当該下請負人がその下請負に係る建設工事につき第二十六条第一項の規定により置かなければならないこととされる主任技術者の行うべき次条第一項に規定する職務を行うこととすることができる。この場合において、当該下請負人は、第二十六条第一項の規定にかかわらず、その下請負に係る建設工事につき主任技術者を置くことを要しない。

 理解できたでしょうか。この文章には「元請負人が」、「下請負人が」や「主任技術者が」という主語が沢山出てきますが、それを受ける述部がどれなのか、一読しただけで分かりません。少なくとも私はわかりませんでした。他にも、気になる点があり、わざと分かりにくくしているんじゃないかと邪推したくなりましたよ。

 どうも再読しても、この条文だけでは意味が理解できそうにないので、カンニングしました。下記リンクに国交省の解説資料があります。

建設業法、入契法の改正について

 この助けを借りて何とか解読できたところで、何故分かりにくいのか、一つ一つ詳しく点検しました。以下、その点検結果です。

■「特定専門工事の元請負人及び下請負人は、」という提題部(topic maker)に関する記述がない。

 文法的には、諸説あるようですが、日本語の「は」は主語をあらわす格助詞(subject maker)ではなく、その文あるいもっと広く文章の話題を示すものと言われます。「は」の直後だけでなく、もっと後ろまで影響することを日本語のネイティブスピーカーは無意識に分かっています。そのため、読む人は、「元請負人及び下請負人」の両方に関する記述がその後に述べられていることを期待します。ところが、それに該当する記述は、「その合意により」だけで、それ以外は「元請負人」か「下請負人」のどちらかの記述しかありません。違和感を感じます。

 もう少し詳しく説明すると、この条文は二つの文から成っていますが、最初の文は「下請負人が置かなければならない主任技術者」の行うべき職務を「元請負人が置かなければならない主任技術者」が行うことができる、と述べています。後の文は、「下請負人は主任技術者を置くことを要しない」ことを述べています。話題であるはずの「元請負人及び下請負人」については、「元請負人下請負人の合意」がありますが、主たる話題ではなく、補足的な内容です。その後に両者が行うべき主たる記述があると期待して読み進めても出てこないので話題が宙に浮いたような違和感を感じます。

 ケチをつけるだけなら誰でもできるので、修文提案もしてみます。「合意」云々は補足的な内容ですので、例えば、「特定専門工事の元請負人及び下請負人の合意が有る場合には・・・」としたらどうでしょうか。

■ 複数ある主語「・・・が」とその述部の対応が分かりにくい。

 前述の補足部分を除いた最初の文の意味を国交省資料を元に読み解き、その構造を示すと次の通りです。それほど複雑でもありません。にもかかわらず分かりにくいのですね。

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 「元請負人が」の述部は直後の「置かなければならない」で、「下請負人が」の述部も直後の「置かなければならない」です。ここは問題ありません。ところが、「主任技術者が」の述部は、「下請負人が置かなければならない主任技術者の」の後の「職務を行うことができる」です。間に挟まった部分にも「下請負人が」という別の主語があるため、主述の対応が不明瞭になっています。例えば「私が君が行ったところに行く」という表現には違和感を感じる人が多いでしょう。普通は、「君が行ったところに私が行く」と表現します。あるいは、提題文にして「私は、君が行ったところに行く」とすべきでしょう。「は」で示される提題部は、直後だけでなく、後ろの方まで影響しますが、「が」で示される主語の述部は直後にないと混乱します。「は」は脳内メモリに長期保存されますが、「が」は短期記憶しかされないようです。

 修文案としては、主語と述部を近づけるように記述順序を入れ替えるのはどうでしょうか。

■ 参照条文を一文の中に入れているため、分かりにくく、しかも同じ参照条文を繰り返しでうるさい。

 主任技術者の修飾節の「第二十六条第一項の規定により置かなければならない」や、職務の修飾節の「次条第一項に規定する」が繰り返され分かりにくくなっています。これらは、なおがきで後で記述したほうが、文の骨格が明瞭になりすんなり読めます。

■ 多分、「当該特定専門工事につき」の位置がおかしい。

 「当該特定専門工事につき」が元請の記述部分にありますが、下請けの内容なので、後ろに持っていったほうが妥当じゃないかと思います。

■「その行うべき次条第一項に規定する職務と併せて」を受ける部分が離れている。

 「その行うべき次条第一項に規定する職務と併せて」を受けるのは、「職務を行うこととすることができる。」ですが、離れているため読んでいるうちに忘れてしまいます。この部分は、元請負人の主任技術者が本来行うべき職務ですから、記述しなくてもよいのじゃないでしょうか。

 以上を踏まえて、次のように添削してみました。どうかな。
 

修正案

第二十六条の三  特定専門工事の元請負人及び下請負人(建設業者である下請負人に限る。以下この条において同じ。)の合意がある場合、当該下請負人がその下請負に係る特定専門建設工事につき置かなければならないこととされる主任技術者の行うべき職務を、当該元請負人が置かなければならない主任技術者が行うこととすることができる。この場合において、当該下請負人は、第二十六条第一項の規定にかかわらず、その下請負に係る建設工事につき主任技術者を置くことを要しない。
 なお、下請負人及び元請負人が置かなければならないこととされる主任技術者並びにその職務は、第二十六条第一項及び次条第一項の規定による。

 

エスカレーターで歩かないのは緩い原則

 エスカレーターの片側空けは、急いでいる人への配慮が発祥で次第にマナーとなりました。一部の人はルールと勘違いしているようですが、配慮ですよ。 配慮とは、したほうが望ましい気づかいですが、しなかったからと言って、重大な支障が生じるわけでは有りません。もし、支障があるのならば、マナーではなく施設管理者がルールにしたり、場合によっては法律で規制しなければならんでしょう。

 前回の記事でエスカレーターで歩く人のほとんどに、急ぐ理由がないと述べました。従って、急いでいる人に配慮しなくても重大な支障は生じません。利便性が損なわれ、不快な気分になってストレスが溜まるかもしれませんが、その程度の支障です。その程度の支障もないに越したことはないだろうと心暖かい配慮からマナーとなったわけです。

 その後、片側空けで別の支障が生じる人がいることが分かってきました。その支障も重大な支障とまでは言えないならば、お互いのストレスを衡量して解決策を図ることになります。でも、対立のストレスを増やすのも本末転倒です。ムキにならずに譲った方がストレスになりません。譲り合いもマナーです。冒頭に述べたように、元々、片側空けは配慮ですからね。その程度のものです。それを権利のように思って、配慮が足りないと怒るなんて、勘違いした道徳教育推進教師ですね。

 ところが、片側空けの支障は利便が損なわれるというレベルではなくて、危険という重大な支障だったんです。そもそもエスカレーターは階段の規定を満足しておらず、歩いてはいけないものです。実際上それほど危険ではないだろうと黙認されていましたが、残念ながら接触転落事故がそこそこ発生しています。
 厳しく言えば、歩いてはいけないのは、マナーではなく、法律で規制されています。ただ、施設の設計や管理者側の規制なので、利用者を直接規制できなかったけです。6年前の記事にも書きましたが、東日本大震災後の節電で停止したエスカレーターは使用禁止になっていました。階段として利用させて事故が起こった場合、管理者責任を問われる可能性があったからでしょう。東芝エレベーターの「エスカレーターを所有・管理する皆さまへ」にも次のように書かれています。要するに、安全第一、利便第二です。

エスカレーターを休止する場合は、一般の利用者が階段として使用しないように、進入防止処置を実施してください。

利用者がつまずき、転倒するおそれがあります。

  とはいえ、法やルールでガチガチに規制するのも嫌ですね。乗り降りの際は歩かざるを得ないし、接触転落の恐れがないなら自己責任で歩いてもいいでしょう。生まれてこの方、歩いたことは無いし、今後も絶対歩かないという人もいないでしょう。立ち止まっている人がいても「ボーッと突っ立ってんじゃねえよ。邪魔だどけ」なんて言わ無けりゃいいです。

 片側空けも配慮なら良かったんです。それがルールみたいになって雰囲気が悪くなりました。その反動で歩くなルールが同じ轍を踏むのは避けたいですね。あくまで緩い原則ということで普及して欲しいです。

エスカレーターを歩く心理

 「エスカレーターは歩かないで手すりを掴んで乗りましょう」。これは随分前から言われています。6年前に私も関連の記事「エスカレーターは階段ではない」を書きました。それから状況はあまりかわりませんね。

 変わらないのは何故でしょうか。一つは、安全の問題ではなくて、マナーの問題と考えている人が多いからじゃないですかね。数年前までは多くの鉄道会社が「あくまでもマナーの問題。『歩くな』とは強制できない」なんて言ってましたからね。

 最近は、安全の問題と認識されるようになってきたようですが、依然として歩く人はあまり減りません。その原因を考えていて、一般的な事故対策と同じ問題がありそうだと気づきました。事故対策では「安全意識の向上」を唱えてもあまり効果がありませんが、エスカレーターの歩行問題も「利用者の意識向上」を唱えているだけなんですね。

 事故の原因になる不安全行動を止めさせるには、何故そのような行動をするのか理由を把握するのが第一歩です。エスカレーターで歩く理由は考えるまでもなく「急いでいるから」と思ってしまいます。ところが、歩いている人をよくよく観察すると、それほど急いでいるようではないのです。私の観察の範囲では、以下の様な状況です。

・最も一般的な急ぐ状況としては電車に乗り遅れそうな場合がある。その場合、ホームに上がるエスカレーターの方が、下りエスカレーターより歩く人が多いはずだが実際は逆。朝の登り歩行側はガラガラで、夕方の下り歩行側はそこそこ混んでいる。

・急いでいるなら、エスカレーターに乗る前や、降りた後も急いで歩くか走るはずだが、そんな人は殆ど見かけない。

・私も電車が発車しそうだと、急ぎたくなるが、別にその電車じゃなくても遅刻するわけじゃない。終電車を除き、数分待って次の電車でも何の支障もない。

 つまり、急がなければならない切実な理由が有るのではなく、止まっているのはイライラするというだけだろうと思えるんですね。私もジッとしているのはストレスを感じますから。あくまで、私の推測に過ぎませんが、歩く心理について調べたものもあるようです。ソースは見つけられませんでしたが。

エスカレーターで歩くの禁止っていつからそうだった!?事故事例も調べた結果「実は非効率で危険!」

駅のエスカレーターの速度は毎分30mで時速1.8kmです。
混雑状況にもよりますが、駅のホームを歩く速度は時速3kmと言われていますので、エスカレーターを時速3kmにすれば歩かなくなると思います。

何故歩くかというと、急いでるわけではなく、時速3kmから時速1.8kmになることの不快感やストレスを本能的に避けるために無意識に歩くからだと言われています。

  また、早く移動したいのは急ぐからでなく競争心からと示したデモンストレーションもあるようです。

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 高速道路で前をゆっくり走る車がいると追い越したくなることや、信号待ちでイライラするのも同じ心理でしょう。別に急ぐ理由がなくてもストレスが溜まります。

 このストレスは、他の人にも圧力となります。エスカレーターの歩行側で立ち止まって、後ろからの歩きたいストレスを抱え込んでいる集団をせき止めるには、強靭な心臓が必要です。歩かない側に移るスペースがない場合、歩きたくなくても歩かざるをえない心理的圧力を感じます。

 このようなストレスが原因なら、歩行の危険性や輸送効率の悪さを訴えても効果は薄いです。歩く理由は理屈ではなくて、本能的というか無意識の行動だからです。こういいう場合の有効な対策は、一般的な事故対策同様に「安全設備」つまり、物理的に歩けないようにしてしまうコロンブスの卵的対策です。例えば蹴上を高くして歩けないようにすればよいですが、まあ非現実的です。

 ならばどうするかというと、歩く方の心理的ストレスを大きくする方法があります。実際にコミケ会場などで行われているように、係員が拡声器で「歩かないでください」と呼びかければ、それに逆らってまで歩く心理的ストレスの方が大きいでしょう。あるいは、エスカレーターのスピードを速くして、歩かないストレスを減らし、かつ歩く危険を実感させ歩くストレスを増やすという方法もあります。しかし、これもあまり現実的ではないでしょう。

 ということで、あまりいいアイデアは浮かびません。せいぜい「歩くな」という表示や掲示を目立つようにするぐらいでしょうか。表示や掲示では歩きたいストレスを減らすことは出来ませんが、歩きたいストレス集団に抵抗しやすくは、なるかもしれません。現状ではそれすらない駅が多いですけど、デカデカと表示してくれれば私も立ち止まりやすくなるんですけどね。

イベントコンパニオンのヒールを履く服務規定は女性差別?

 この間,「イベントコンパニオンのヒールを履く服務規定は女性差別?」というツイッターのアンケートをみました。ほぼ三分の一が女性差別という結果でした。意外に多いと驚きました。女性差別に何故なるんでしょうかね?。性差別というのは,根拠がないのに男女間の扱いを変えることですが,イベントコンパニオンは女性だけの仕事なので,扱いを変えようがないと思うんですけど。もちろん服務規定に問題がある可能性はありますよ。でもそれは,差別とは別の労働条件の問題でしょう。仮に差別があるとすれば,イベントコンパニオンという職業の存在自体が差別であるということになります。

 職業自体が差別という場合も2種類考えられます。一つは,屈辱的な仕事を女性だけにやらせているというもので,前々世紀の女給や酌婦を蔑視するような時代はあったかもしれませんが,現代ではアナクロでしょう。いろんな考えの人がいますから,女性アイドルや女優などの女性性を商品化している職業が差別だという主張をする人が現代でもいないとは限りませんけどね。あえてその気持ちを推測すると,そういう職業で女性が人間として扱われずに搾取されてきたという歴史を言っているのかもしれません。でも,現代のコンパニオンが自分の職業をそのように思っているのでしょうかね。もし仮にそう思っているのなら,服務規程の撤廃などと生ぬるい要求じゃなくて,職業からの解放を訴えたほうがいいですね。

 もう一つ別の観点からの差別という主張は,男性だけが接客サービスを受けられるのは不公平で,男性のコンパニオンもいるべきだという考えです。そういう需要があるかどうかわかりませんが,そう思うなら,誰も反対しませんから,事業を始めればいいんじゃないかと思います。ただ,この場合も女性コンパニオンがヒールを履く服務規程の問題とは無関係です。

 ということで,服務規程と性差別は関係ないと思うんですけど,労働条件の問題は残ります。職業病を引き起こすような労働条件はまずいからです。プロレスラーは殴られたり蹴られたりするのが仕事とはいえ,限度というものはあります。プロレスラーが格闘を商品としているように,コンパニオンは女性性を商品としていますから,服装の服務規程があるのは合理的で差別ではありません。しかし,限度があるのは当然です。足に障害が残るようではいけません。

 コンパニオンに女性的な服装を求める服務規程があるのは差別ではありませんが,女性性の必要がない事務職に女性というだけで,服装の規程があるのは差別でしょうね。この区別が出来ない人が,性差別に限らず,一切の違いを認めないという異様に平等で均質な社会を目指しているようで心配なんですよ。私が特別心配性だからじゃないです。なにしろ異様に平等で均質な社会は一部で実現しましたからね。

 一時話題になった、運動会の徒競走でみんな手をつないでコールインがその一例です。競争は順番を付けることが目的でそれで盛り上がるわけですが,なぜか順番を付けることが差別だと考えたようなのですね。順番付けが差別なら、競走を止めるしかありませんが、順番を付けることだけ止めて「競争」を続けるという意味不明な対応をしてしまいました。こういうことも現実に起こるので,男性と区別がつかない格好の女性が接客するという奇妙に平等で公平な時代が訪れないとも限りません。

 次のアンケートをしたら,意外な結果がでるかも。

・女優に演出でヒールを履かせるのは女性差別
・プロレスラーが殴られるのは男性差別
・事務職が運動不足になるデスクワークをさせられるのは職業差別?

将来世代へのツケ

 財務省財政赤字を「将来世代へのツケ」と言っています。

わが国財政の現状等について
財政にもまた「共有地の悲劇」が当てはまる。現在の世代が「共有地」のように財政資源に安易に依存し、それを自分たちのために費消してしまえば、将来の世代はそのツケを負わされ、財政資源は枯渇してしまう。悲劇の主人公は将来の世代であり、現在の世代は将来の世代に責任を負っているのである。

 この「共有地の悲劇」の例えは不適切と思いますが、その前に、ツケを回される将来世代というのは誰のことなのでしょうか。なんとなく、将来の国民と言いたげですが、本当にそうなのか、具体的にお金の流れを追ってみましょう。借金をしたのは、現世代の政府で、現世代の国民の誰かが国債を買ってお金を出します。ツケを回されたのは、借金を返さなければならない将来世代の政府です。つまり、今の政府が将来の政府にツケを回しただけで、国民は関係ありません。でもまあ、将来の政府が謝金を返せず、破綻すれば国民も困ると言いたいのかもしれません。

 では、財務省は国民が困らないようにどうしようとしているかというと、返す必要のない税金を増税すると言っているのですね。なんのことはない、将来の政府にツケを回さないで、今の国民にツケを回すと言っているだけじゃないですか。トンだ詭弁ですが、政府が借金を返せずに破たんすれば国民も困るのは確かと思う人もいるかもしれません。そこで、借金を返せない破綻状態がどんなものか、増税した場合と比較してみましょう。 

 今すぐ税金を徴収する場合と将来政府にツケを回し、返せなくなってしまった場合の比較になります。どちらの場合も現世代の国民がお金を政府に渡します。そして、どちらの将来も、政府はお金を返しません。約束を破る破らないという違いはありますが、国債金利を無視すればお金の流れ自体はなにも変わりません。

 従って、財務省の言うように、借金が返せない状態が「共有地」の資源が枯渇であるならば、増税した場合も枯渇です。国民という「共有地」から収穫したお金は全く同じで、将来の政府に残っているお金も同じなのですから。

 以上は、「共有地」から収穫するお金が同じという説明ですが、実際には、お金は経済活動で増えたり減ったりします。二つのケースではそこに違いが出てきます。そして、政府が収穫するお金や国民という「共有地」に残るお金は、デフレの時には増税の方が少なくなってしまうというのが反緊縮派の指摘です。

 どこが違うかと言えば、政府が収穫するお金の総額は同じでも、収穫の仕方が違います。国債は貯蓄に余裕のある投資家が買いますが、税金は、貯蓄の余裕のない人からも一律に徴収されます。その結果、消費や投資を切り詰めざるをえなくなり、景気が悪化し、国民のお金はさらに減ってしまいます。すると税収も減るので、「共有地」からの収穫を保つにはさらに増税しなければならず、悪循環になります。

 実はさらに大きな違いがあり、国債の場合「共有地」から収穫する必要もありません。日銀が国債を買えばいいのです。そのお金は日銀が発行するだけです。これは財政ファイナンスといって禁止されているそうですが、すでに発行されている国債の引き受けは可能で、間接的に新規国債発行を促しているようです。ここが、「共有地」の牧草とお金の大きな違いです。お金は牧草のように実体的な価値を持ちませんが、経済活動に影響を与え実体的な価値を産みだします。そういう意味で、お金を「共有地」の資源に例えるのは正確ではないと思います。

 それでも、あえて「共有地」に例えるなら、次のようになると思います。「共有地」の牧草は普通の牧草ではなくて、将来から時間を超えて移植できます。現在の「共有地」は不景気のためやせ細っており、収穫してしまうと枯渇してしまう恐れがあります。そこで、将来の「共有地」から移植します。いずれ、それは返済しなければなりませんが、移植の効果で豊かになれば、十分に返済可能です。これが国債の例えです。一方、増税とは、現在のやせ細った牧草地から収穫を続けることに相当します。ますますやせ細るので収穫量の比率(税率)も増やし続けなければなりません。いずれ枯渇するんじゃないでしょうか。