日銀券の流通と財政赤字

 にわか勉強で、通貨の内、金融機関の預金は金融機関の融資により創造され流通していると分かりました。では、現金(とりあえず紙幣)はどのようにして市中に流通していくのでしょうか。またその発行量を日銀はどのように調整するのでしょうか?日銀の説明は次の通りです。

銀行券の発行

日本銀行法では、日本銀行は、銀行券を発行すると定めています。銀行券は、独立行政法人国立印刷局によって製造され、日本銀行が製造費用を支払って引き取ります。そして、日本銀行の取引先金融機関が日本銀行保有している当座預金を引き出し、銀行券を受け取ることによって、世の中に送り出されます。この時点で、銀行券が発行されたことになります。

 この説明では、知りたいことが全然分かりません。日銀の金庫の現金が、どのようにして取引金融機関の当座預金に流れていくのでしょうか。日銀が金融機関の日銀当座預金に親切にも入金してくれれば、金融機関は大喜びですが、そんな馬鹿なことはあり得ません。おそらく、金融機関は日銀から借金しなければならず、それで日銀当座預金残高が増えます。次に、それが引き出されて、さらに融資されるなどしてやっと市中に流通するのでしょう。

 重要なのは、融資などの需要があることで、そのような使途がなければ、日銀が日銀券をいくら印刷してもお金は金庫か日銀当座預金に死蔵されているだけで、市中には流通していきません。日銀は好きにお金を印刷できますが、貸付や流通を強制はできません。

 つまり、市中で経済活動に伴う取引がない限り、日銀から現金は出ていきません。そこでどうするかというと、日銀自ら取引を行うのですね。それを「公開市場操作」といいます。この言葉は良く聞きますが、一言でいえば、市場の国債の売買を行うことです。日銀が国債を買えば日銀の金庫から現金が代金として支払われるので通貨量が増えます。売れば、逆に減るので、経済情勢に応じて調整しているわけです。現金を直接、市中に放出したり、回収するという魔法はあり得ないので、国債の売買を通じて行っているということになります。

 ただし、それだけ、つまり金融政策だけでは不十分です。日銀が新規発行国債を買えば、現金は政府に渡りますが、政府が公共事業などでそのお金を使って初めて、民間へ現金が流通します。デフレでは、お金の価値が高くなっていくので、消費や事業への投資をするより貯蓄して金利で稼いだほうが得です。そのためお金が流通せず不景気が続きます。そこで、政府が呼び水の支出を行うわけですね。そうすると、お金が増えて価値が下がりますから、民間の消費や投資も進むようになるという理屈です。理屈だけでなく、実際の歴史にも合っています。

 ここまで来て、やっと最初の疑問の答えがなんとなく分かりました。日銀は公開市場操作によって、お金を政府に流し、政府がそれを支出して、消費や投資を刺激します。消費や投資の需要が増えれば、金融機関は信用創造で預金を増やしたり、日銀当座預金を現金に換えたり、それでも不足なら日銀から借りるのでしょう。そのようにして市中の通貨(預金と現金)が増えていきます。

 以上から感じるのは、通貨が先にあるのではなく、経済活動に伴う取引が先だという事実です。通貨は取引の交換が同時に行われない場合の履行約束みたいなものですから、前提として取引があります。歴史的にも、通貨は取引に伴う借用書や預かり証つまり債務の証明書から発展したのであって、金貨のように通貨自体に価値があったとは限らないようです。金が通貨になったのではなく、金の預かり証が通貨になったということです。取扱い安さという実用面からも、その方が合理的です。

 ここで、話は変わりますが、財政赤字について考えてみます。財政破綻を心配する財政緊縮派に対して「政府はお金を発行できるので破綻しない」という反論があります。私はこの反論は説明不足で少々乱暴だと思います。上述のように、お金が先ではなく、取引が先ですから、取引の実態や需要がない所に、お金だけ発行しても、物価が上がるだけで、景気はよくならないスタグフレーションになるだけではないでしょうか。先ずは、取引の需要を増やす必要があり、だから、政府が公共事業などで支出を増やすわけですね。それに伴いお金が増えていき、それに引き続き、民間の消費や投資も増え、さらに税収が増え、財政赤字も解消するという順序ではないかと思います。

 財政緊縮派もそれへの「政府はお金を発行できるので破綻しない」という反論も、消費や投資の需要を考えていない点で似たり寄ったりと思います。

石綿除去工事における洗眼及びうがいのできる設備の設置場所

 今回の記事は、重箱の隅を楊枝でほじくって、揚げ足を取るような話である。石綿除去工事に関わる人以外にはわかりにくいし、面白くもないと思う。それでも、錯覚の問題としてみると、興味深いかもしれない。

 石綿障害予防規則(以下、「石綿則」という。)31条には、次の規定がある。

事業者は、石綿等を取り扱い、又は試験研究のため製造する作業に労働者を従事させるときは、洗眼、洗身又はうがいの設備、更衣設備及び洗濯のための設備を設けなければならない。

 「石綿等を取り扱い、又は試験研究のため製造する作業に労働者を従事させるときは」とあるように、建築物の解体や石綿除去工事に限定した規定ではない。一方、建築物の解体や石綿除去工事に関しては、次の第6条の規定もある。

第6条2 事業者が講ずる前項本文の措置は、次の各号に掲げるものとする。
一 前項各号に掲げる作業を行う作業場所(以下この項において「石綿等の除去等を行う作業場所」という。)を、それ以外の作業を行う作業場所から隔離すること。
二 石綿等の除去等を行う作業場所にろ過集じん方式の集じん・排気装置を設け、排気を行うこと。
三 石綿等の除去等を行う作業場所の出入口に前室、洗身室及び更衣室を設置すること。これらの室の設置に当たっては、石綿等の除去等を行う作業場所から労働者が退出するときに、前室、洗身室及び更衣室をこれらの順に通過するように互いに連接させること。

 石綿除去等を行う作業場所は隔離し、その出入口には前室、洗身室及び更衣室を設置しろという規定である。この3室をまとめてセキュリティーゾーンと呼ぶ。

 では、石綿除去工事では、31条の「洗眼、洗身又はうがいの設備」はどこに設置しなければならないのだろうか?石綿則には特に規定はないが、労働安全衛生法第28条第1項の規定に基づく技術上の指針なるものがあり、「石綿指針」と呼ばれている。そこに次のように書いてある。

2-2 吹き付けられた石綿等の除去等に係る措置
 2-2-1 隔離等の措置
  3)前室及び設備の設置」
   イ 洗眼及びうがいのできる洗面設備並びに洗濯のための
     設備を作業場内に設けること。

 「作業場内」に設けることになっているのだが、その定義は特に無い。ちなみに、石綿則6条には「石綿等の除去等を行う作業場所」を、それ以外の作業を行う作業場所から隔離すること。」という規定もあるので、「作業場内」とは特に限定はないと解釈できる。

 さらに、厚労省は、「石綿飛散漏洩防止対策徹底マニュアル」という手引きのようなものも出しており、そこに「石綿指針」の解説があり、次のように書いてある。

石綿指針2-2-1(3)のイ中「洗眼及びうがいのできる洗面設備ならびに洗濯のための設備」は、セキュリティーゾーン内に設ける洗身設備とは別に設ける必要がある。《平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号》

 「セキュリティーゾーン内に設ける洗身設備」とは、一般的にはエアシャワーであるが、排水処理装置を備えたシャワーを設ければ、洗眼及びうがいも出来る。しかし、洗眼及びうがいのできる洗面設備を兼ねることは出来ないということであろう。つまり、セキュリティーゾーンの外に設けることになる。

 ほぼ同様の解説が、環境省大気汚染防止法関連の「建築物の解体等に係る石綿飛散防止対策マニュアル」にもある。次の通りである。

セキュリティゾーン内に設ける洗浄設備とは別に,洗眼,洗身又はうがいの設備,更衣設備及び洗濯設備をセキュリティゾーン以外の場所に設ける必要がある。(平成 21 年 2 月18 日付き基発 0218001)
これらの洗浄設備は施工区画の内部に設けることが望ましい。

 ここで「施工区画」と言っているのは、隔離空間、セキュリティーゾーン、その外部の資材置き場などを含む作業を行う場所全体の事である。そこは、区画されて、作業者以外が立ち入らないよう管理される。石綿指針の「作業場内」と同じと解釈できる。以上より、洗眼,洗身又はうがいの設備は、セキュリティーゾーン以外の施工区画内に設置するという結論になる。

 以上は、前置きで本題はこれからである。上述の二つのマニュアルで参照されている「平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号」には、マニュアルの解説のようなことは一切書かれていないのである。おそらく、次の記述を誤読したのだろう。

第3 細部事項
 1 石綿則関係
  (3)第6条関係 
   ク 第2項第4号の「前室」とは、隔離された作業場所の
     出入口に設けられる隔離された空間のことであること。
     なお、前室内に洗浄設備を設けた場合であっても、
     洗身室を併設させる必要があること。

  ここで、述べてあるのは、洗浄設備を前室に設けても、洗身室と兼ねてはいけないとしか読めない。つまり、セキュリティーゾーンは3室を独立して設けよということで、洗眼及びうがいのできる洗面設備はセキュリティーゾーンの外に設けよとはどう解釈しても読めない。
 また、洗眼又はうがいのできる設備は、石綿除去工事現場だけでなく製造施設なども対象とした石綿則31条の規定であり、6条にはない。「平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号」には、第31条関係の記述はないのである。

 6条の説明を31条の説明と間違え、かつ書いていない解釈をしている。なかなか珍しい錯覚だと思う。

よくわからない準備預金制度

 前記事で、準備預金制度への疑問があると述べました。少し調べたら、ますます分からなくなりました。

 準備預金制度の目的の説明にはいくつかありますが、大きく分けると、①預金者保護と②通貨調節手段のようです。預金者保護というのは、預金引出しに備えるという意味のようです。通貨調節手段とは、準備率操作を通じて金融を緩和、または引き締めることのようです。①は金融機関の説明に多く、②は日銀の説明と準備預金制度に関する法律の目的に書いてあります。

www.boj.or.jp

 かつては、準備率を上下させることにより、金融機関のコスト負担の増減を通じてその貸出態度等に影響を与えること、つまり、準備率操作を通じて金融を緩和、または引き締めることを目的として運用されていました。しかし、現在、わが国をはじめ短期金融市場が発達した主要国では、そうした金融緩和・引締めの手段として準備預金制度は利用されておらず、わが国の準備率も、1991年(平成3年)10月を最後に変更されていません。
 1990年代以降、無担保コールレート(オーバーナイト物)が金融市場調節の主たる操作目標になる中、準備預金制度の役割としては、金融機関に対し、日本銀行に預け入れる当座預金の残高について、日々「法定準備預金額(所要準備額)」を維持するよう促すことがより重要となってきました。これにより、日本銀行当座預金に対する需要、すなわち、短期金融市場における資金の需要を概ね安定的かつ予測可能なものとし、そのうえで、オペレーションによって無担保コールレート(オーバーナイト物)を適切な水準に誘導していました。
 もっとも、2000年代の「量的緩和政策」(2001~2006年)や、「量的・質的金融緩和」(2013年~)の時期のように、日本銀行の潤沢な資金供給により、多くの金融機関が法定準備預金額を超える「超過準備」を有することが常態化してくると、準備預金制度に、各金融機関の日銀当座預金残高を安定化させる役割を期待することは難しくなります。こうした中、日本銀行は、補完当座預金制度の枠組みのもとで、「超過準備」に一定の金利を付すことにより、金融機関の裁定行動を通じて短期市場金利を一定の範囲内で推移するよう促しています。

www.daiwa.jp

 金融不安などで金融機関の資金繰りが悪化した場合に備えて、金融機関に対して、日本銀行当座預金に預かり資産の一定比率(準備率)以上を預け入れることを義務付けている制度。

www.tokaitokyo.co.jp

 金融不安などによって銀行など民間金融機関の資金繰りが悪化した場合、日銀当座預金に預けてある準備預金の一部を取り崩して、民間金融機関の支払いが滞るのを回避するために設けられているのが準備預金制度です。また、準備預金はあらかじめ決められた一定率によって、各金融機関が日銀当座預金に準備預金を積み立てていますが、この率を引き上げると、金融機関から日銀に資金が吸い上げられるため、金融引き締めと同じ効果をもたらします。逆に預金準備率が引き下げられると、金融緩和の効果が期待できます。

 先ず、①預金者保護については、日銀の説明にはありませんし、法律の目的にもありません。主に、民間金融機関が説明していますが、日常的な顧客による預金引出しに備えるためなら、銀行に現金を置いておかないと業務に支障が出ますし、額的にも僅かで済むのではないでしょうか。日銀当座預金から引出すのは、高額の現金の場合で事前に連絡が必要です。そもそも、多くても預金の数%の準備で預金者保護になるのでしょうか。

 次に、②の通貨調節手段ですが、日銀は現在、その目的では使っていないと言っているんですね。現在では、法定準備預金額を超える「超過準備」を有することが常態化していて、通貨調節手段として使えないそうです。そこで、「超過準備」に一定の金利を付すことにより、金融機関の裁定行動を通じて短期市場金利を一定の範囲内で推移するよう促して通貨調整しているらしいのです。だとすると、超過ではない準備預金は何のためにあるのか私には分かりません。現在は特に意味はないけど、歴史的経緯で残っているだけという印象を受けます。

 以上二つ以外に、準備預金の日銀当座預金には、良く知られた役割があります。金融機関が他の金融機関・日本銀行・国と取引を行う際の「決済手段」としてのご存じの機能です。A銀行のX口座からB銀行のY口座に振り込む場合、X口座の数字を減らし、Y口座の数字を増やすだけでは、A銀行の債務が減り、B銀行の債務が増えることになってしまいます。そこで、日銀のA銀行口座の数字を減らし、B銀行口座を増やして、振込は完了します。これは明快でよーくわかります。

 最後に①預金者保護について、もう一度考えてみます。銀行が日銀当座預金から現金を引き出すことが出来るのは、それ以前に現金を預けているからでしょう。でも、本当に現金で預けたのでしょうか。銀行が誰かに融資した債権でもよいのではないでしょうか。それでよいのなら、その債権は、信用創造で銀行が無から生み出したもので、現金の裏付けがあるものではありません。つまり、預金者保護と言っても、いざというときに日銀が現金を用立てているにすぎませんので、銀行保護と言った方が実態に近いような気がします。

 実際の所、日銀当座預金への出し入れが現金を伴うのかは、私の調査能力ではよくわかりません。しかし、少なくとも、上記の銀行間の振込では現金は伴っておらず、数字の操作だけです。なんというか、昔の金本位制の亡霊が残っている気分で釈然としないのですが、私の理解能力を超えてしまったようです。

信用創造の錯覚

 財政赤字についてあれこれにわか勉強していたら、銀行について素朴な誤解をしていることに気づかされました。

 「銀行は、家計や企業から預金を集め、集めた預金を家計や企業に貸し出す。」

 昔々、学校で習ったことですが、これまで疑うことなく過ごしてきました。実際の銀行はそんなことしていないと知ったのはついこの間の事です。そういわれてみてあらためて考えてみれば、この俗説は確かに奇妙です。

 私は、銀行が融資する時、その裏付けの現金を持っていると思っていました。裏付けの現金は家計や企業から集めたもので銀行の金庫に保管されていて、現金との引き換え証が預金通帳だと。融資する時に金庫の現金を手渡すのではなく、融資先の預金通帳に金額を書き込むだけだということは流石に知っていましたが、いつでも引き出される可能性があるので、その時に備えて金庫に預金相当の現金が必要と思っていたのでした。

 でも、引き出しに100%備えるのであれば、金庫の現金では全然足りませんね。引き出す可能性があるのは、融資先だけでなく、最初に預けた顧客も同じです。最初に100万円の預金が預けられていたとすると、融資後の預金は100万円ではなく200万円になります。これはいつでもひきだされる可能性がある債務です。取り付け騒ぎがあれば銀行は破たんしますが、それは、預金相当の現金を銀行は持っていないということを意味しています。

 そもそも、俗説でも取付騒ぎは起こらない前提です。預けられた現金はすぐには引き出されないからこそ、別の誰かに貸せると考えているわけですから。それでも、融資が現金で行われるなら俗説は間違いとは言えません。しかし、現実の融資は預金通帳に100万円と書き込めばよいだけで、預けられた現金がなくても可能です。その預金を融資先が決裁に使い、現金引き出されるまでに、返済されれば良いわけです。預金の裏付けは金庫の現金ではなく、返済が確実に行われるという見込みなのですね。

 とはいえ、時々は、預金から現金が引き出されることもあるので、ある程度の現金を持っておく必要も銀行にはあります。ただ、その額は、預金の1割程度でよいことが経験的に知られていたそうです。銀行の前身は、金細工師と言われる人々で、金を預かって保管料を取るという商売もしていたそうです。金を受け取った時に与り証を発行しますが、これが現在の預金通帳に相当します。預かり証は、保管料を払っていれば、金と交換できるので、通貨として流通するようになりました。そして、通貨として流通したまま、金に引き換えられないものがあることに金細工師は気づいたそうです。なんと引き換えに戻ってくるものは1割程度しかなかったということです。ならば、預かっている金の9倍までの預かり証を貨幣として発行しても大丈夫です。金細工師は金を預からずに金利を取って、預かり証を貨幣として貸し付けるといううまい商売をするようになったとのことです。(詐欺か、錬金術か。ただの紙切れが「1万円札」になる本当の理由=吉田繁治)

 

 金細工師がしたことは、預かった金を他の人に貸し付けたのではなく、なんの裏付けもない預かり証を貨幣として創造して貸し付けたわけです。現代の銀行の融資も基本的に同じことです。裏付けのない預かり証や預金を貨幣として信用させるので「信用創造」と言うのでしょうね。一見詐欺めいて見えますが、金細工師や銀行は野放図に貸し付けているのではなく、返済の見込みを見極めています。つまり、返済できるということは、事業に成功し、付加価値を生みださなければならないので、それを見極めるという重要な仕事をしていると言えます。

 ただ、預かり証が通貨として信用されたのは、金の裏付けがあるという錯覚でした。同様に、銀行預金の信用も誰かが預けた現金が存在しているからと私は錯覚していました。そして、どうも私に限らない様です。「信用創造」という概念の説明には、「又貸し説」という錯覚があるらしいのです。信用創造の又貸し説は、日本版Wikipediaで次のように説明されています。

預金準備率が10%の時、銀行が融資を行う過程で以下の通り信用創造が行われる。

 1.A銀行はW社から預金1,000円を預かる(そのうち900円を貸し出すことができる)。
 2.A銀行がX社に900円を貸出、X社が900円をB銀行に預金する(そのうち810円を貸し出すことができる)。
 3.B銀行がY社に810円を貸出、Y社が810円をC銀行に預金する(そのうち729円を貸し出すことができる)。
 4.C銀行は729円をZ社に貸し出す。

A銀行は1,000円の預金のうち、100円だけを準備として残り900円を貸し出す。A銀行が貸し出しを行うと貨幣供給量は900円増加する。貸出が実施される前は貨幣供給量はA銀行の預金総量1,000円のみであったが、貸出が実施された後の貨幣供給量はA銀行預金1,000円+B銀行預金900円=合計1,900円に増加している。このとき、W社は1,000円の預金を保有しており、借り入れたX社も900円の現金通貨を保有している。この信用創造はA銀行だけの話ではない。X社がB銀行に900円預金することで、B銀行が10%の90円の準備を保有し残りの810円をY社に貸し出す。さらに、Y社がC銀行に810円預金することで、C銀行が10%の81円の準備を保有し残りの729円をZ社に貸し出す。このように、預金と貸出が繰り返されることで、貨幣供給量が増加していく。

 

 ごちゃごちゃと書いてありますが、預けられた現金を銀行が貸し出して、借りた人が又銀行に預けると預金ができ、それを繰りかえせば預金は元の現金以上に増殖するということです。この説明では、現金で貸し出すという過程が前提です。なぜなら、A銀行のW社の預金から、B銀行のX社の預金に直接、振込むなら、預金の総額は変わらず、「創造」されないからです。一旦、現金で貸し出し、それを預金することで「創造」していると考えているわけですが、現実には現金の介在は殆どありません。このような現実と違う説明がされるのは、信用創造には裏付けの現金が必要という錯覚があるからではないでしょうか。

 実際には、今までの説明の通り、預金に現金の裏付けは不要で、信用から「創造」されます。又貸し説では、誰かが現金を銀行に預金した時に通貨が創造されることになりますが、返済の信用があれば預金通貨は創造されます。

 なお、日本版Wikipediaの説明の仮想例では「預金準備率が10%」とありますが、同じWikipedia準備預金制度の説明では0.05~1.3%とあり全然違います。実際の日銀の発表もその程度です。10%とは、前述のように預金のうち現金化される比率であり、通貨(現金通貨+預金通貨)に占める現金通貨の比率にほぼ相当します。これと預金準備率は桁違いですので、別物のような気がします。ところが、準備預金は、「金融機関が保有している顧客による預金引出しに備えるための支払準備金」と説明されています。これもまた間違いのような気がするのですが、どうなのでしょう。

財政赤字は、家計の赤字ではなくお母さんの財布の赤字

 「国債を家計の借金に例えられるか?」で述べた大家族の家計はお母さんが付けています。それとは別にお母さん個人の財布もあります。お母さんは無収入なので、その財布への収入は、働いているほかの家族から徴収していますが、徴収して自分の為だけに使うのではありません。お母さんは家族全員のことを考えていますから、家族共通に必要なものは、その財布から出費しています。

 お母さんの役割は大変で、家計を健全に維持しないといけません。家族の収入が減れば、家計の支出を抑えるだけでなく、家族の収入を増やすための支出に自分の財布から出費しなければなりません。

 ところが、日本家のお母さんは、家計簿をつけておらず、自分の財布にしか関心がありませんでした。家族の収入が減っているのに、家族からの徴収額を増やし、家族共通に必要なものへの支出を減らし、自分の財布の赤字を無くそうとしました。その結果、家族の収入はさらに減り、家計はますます厳しくなりました。

 お母さんの行動にはもう一つ理由がありました。少し前は、家族の収入は好調でした。というか好調過ぎました。お金余りのインフレになったので、お金を眠らせて価値を減らしていくよりはと、家族のだれもがお金を消費したり投資して更に収入を増やそうとしました。ところが、投資によって生み出されるものの値段が、家族の購買力や需要を超えてしまい、価格が暴落しました。お母さんは羹に懲りて膾を吹いたのでした。

 現状は羹なのでしょうか。それとも膾なのでしょうか。私には膾に思えるのですが。

企画総務部が赤字の会社はつぶれるか

 前記事に引き続き、国の赤字や借金について考えてみます。今回も例え話なので大雑把な話だと思ってください。厳密に語る知識も能力もないので、ご容赦願います。

■ 企画総務部も独立採算制の企業

 政府は各部門が独立採算制の企業の企画部というか総務部的なところがあります。企画総務部は、何も生産していませんし、企画総務部だけで独立して存続することは出来ません。独立採算制を企画総務部にも適用すると、その会計では収入がなく支出だけですから赤字になるに決まっています。かといって、それで企画総務部や会社が潰れるわけでもありません。

 赤字とは、収支の収入の部に借金のようなものが計上されていることですが、企業外からの借金以外に、他の生産部門が上げた収入の一部が繰り入れされているだけの場合があります。国の会計では、それがほとんどで、税金や国債に相当します。また、支出の部には、部門共通の設備投資への支出が企画総務部の会計に計上されたり、各部門の個別設備投資が高額な場合は、企画総務部が支出しても良いわけです。もっともそも出所は、他の部門です。企業外部からの収入は企画総務部にはありませんから当然です。

■企画総務部の役割

 つまり、企画総務部は各部門の資金の融通を調整していることになります。場合によっては、企画総務部を介さずに各部門が直接、貸し借りする場合もあるかもしれません。企画総務部を介するのは、企業としてどの部門を強化するかなどの経営判断がある場合でしょう。また、多数の部門が絡む場合、一旦、企画総務部にプールして、各部門に分配するほうが円滑に行えます。銀行的な役割と言えます。

 企画総務部会計が赤字になるということは、企業として何か深刻な問題があるのでしょうか。それは、一概には言えませんが、企業全体が黒字なら多分、問題ありません。その場合の赤字の実体を考えてみると、単に、黒字の余裕のある他の生産部門からの形式的な借金に過ぎません。借りた金は、別の部門に投入されますが、それは元の部門で眠らせておくよりも、別の部門に投資したほうが良いという判断があるわけです。

 このように、独立採算と言っても、各部門が全く独立しているわけではなく、部門ごとに会計があり、企画総務部がそれらの融通をある程度制御していて、それが企画総務部の役割です。

 国の場合、企画総務部会計のようなものが国家会計と呼ばれ、目に見える形で存在しますが、企業全体の会計に相当するものが、明確な形で存在しません。このような事情が、政府会計の赤字に過ぎないものを国の赤字と錯覚させているのではないかと思います。

■赤字の何が問題か

 ところで、国全体の収支会計をあえていえば貿易収支だと思いますが。これも赤字だとよろしくないのか実は私にはよくわかりません。米国は長年赤字ですが破綻していません。世界全体で見れば、赤字と黒字は釣り合わなければならないので、赤字国家は必ず存在します。赤字でも交易が途絶えなければ良いわけで、途絶えない根源は何なのかです。企業も赤字だから潰れるわけではなく、お金が回っていれば大丈夫と言われます。お金が回るとは銀行が融資してくれることで、銀行は何を根拠に融資するのかです。

 なんとなく、分かる様な気がしますが、明確に述べられるほどまだ理解していません。

国債を家計の借金に例えられるか?

 国債を家計の借金に例えるのは間違いだと思いますが、腑に落ちる説明がいまいち見つけられません。例えば、「国は通貨をいくらでも発行できるから借金を返せないことはない」という説明がありますが、これだけで納得する人は少ないでしょう。野放図に発行すれば貨幣の価値がなくなるだけですから、貨幣とは何かというところから説明する必要があります。ところがそういう説明をすればするほど、専門的な細部に入り込み門外漢には理解が困難になります。

 結局、理解するには頑張って勉強するしかなく、王道はないのでしょう。それでも、大雑把な骨格みたいなものだけでも簡単に説明できないだろうかと、ど素人の私が無謀にも、そして例によって例え話で考えて見ました。専門家ですら簡単に説明できないのですから、現時点の私の理解を整理したものでしかないことを最初に言い訳として述べておきます。変なところがいろいろあると思います。

■ 国債は政府や行政組織の借金ではない

 家計の借金は、その家の消費や投資のために、外部から借りるものです。しかし、国債はそういうものとは少し違うと思えるのですね。例えば、国の支出には、政府や行政の消費のためのものがあります。役所の建物のような公用財産の取得などです。しかし、それらが支出に占める比率はごくわずかです。支出の多くは、道路や公共施設のような公共財産の類です。これらは、国や行政機関が使うためではなく、国民が使うものです。

■ 自分自身への借金?

 国民が使うものへの支出のための国債は国民への借金と言えるでしょうか。借金だとしたら、政府は国民ではないのでしょうか。国民が使ったり、投資するための支出は、国民自身が負担するものです。ですから常識的には公共的な支出の財源は税金で賄うと考えられていて、国民のために使った税金を返済する必要のある借金と考える人はいません。ところが、本質的な使途は同じであるにもかかわらず、国債は借金扱いです。何故でしょうか。
 
 家計に例えれば、家族の食費を家族の誰かが家族から借りて、食べさせてあげた上に、利子をつけて返しているような奇妙なところがあります。家族のだれかではなく、家族の外部に奇特なスポンサーがいてただ飯を食わせているのでもない限り、ありえないことです。しかし、家族が外食した時、その時十分な持ち合わせがあった家族の一員が建替え払いをして、後で返してもらうという状況はあり得ます。

■ 家族全員の一部の家族への借金

 家計を支える家族が沢山いる大家族を考えます。日常的な食費などは、各人が収入に応じて家計にいれた税金のようなもので賄っています。ところが、家を建てるような大きな支出となると、新入社員の安月給の家族もいて負担出来ません。負担の分配をどうするかも揉め事の種です。一方で個人的な貯蓄が余っている家族もいるのなら、とりあえずその家族に負担してもらい、あとで返すという方法が可能で、しかも迅速に家を建てられ、家族全員がその恩恵を受けられます。

■ とりあえず内部経済に限定

 ただしこの例えは、多少修正を加える必要があるかもしれません。通常、家を建てるような大事業は、家族の外部の工務店に依頼します。しかし、国債の例えとして考える場合、家族の一員に工務店がいると考えたほうがピッタリします。つまり内部経済です。それに付随して、家族内の貸し借りは家族内でのみ通用する家族通貨のほうが良いでしょう。財務大臣の母親が家族債を発行し、貯金の余裕のある長男に買ってもらい、家族通貨でもって、工務店を営む次男に家を発注します。家族通貨それ自体に価値はなく、家族間の貸し借りの記録みたいなものです。なので、紙幣や硬貨という物体である必要はなく、帳簿への記録でも十分です。単なる貸し借りの記録ですので、通貨量の制限のようなものはありませんが、次男が現実に家を建てることができるという裏付けは必要です。

■ 母親は長男と次男の貸し借りの調整仲介役

 以上の取引で実体的に貸し借りをしているのは、長男と次男です。財務大臣の母親はその取引が場所や時間に制限されることなくスムースに行われ、家建設という生産が実現できるようにする調整仲介役です。母親が自分の化粧品を買うために借金しているわけでは有りません。家族債は経済と生産活動を促進する触媒のようなもので、それが効果を発揮すれば、実質返済されたようなものです。利息だけ受け取って、借り換えを続けても、つまり返済清算をしなくても良いのではないかと思います。そのあたりの事情は株に似ています。会社が解散されないのなら、株は売らないで持ち続けても構いません。

。もちろん、運用を間違えれば、デフレやハイパーインフレを引き起こし、家族経済を阻害しますから、母親の役割は重要です。株式会社の経営陣の役割が重要なのと同じではないでしょうか。

■ 重要なのは家族運営

 重要なのは、現在の状況で家建設という事業を行った方が良いのか、行わない方が良いのか、行うなら、どのように進めればスムースなのか、そして家族の経済と生産活動が発展するかという家族経営だと思います。それがうまくいけば、家族債の借り換えも成立し、家計の破綻の心配はありません。一方、失敗すれば、家族全員が経済的に困窮します。家計の破綻というのは、それに付随した二次的な現象に過ぎないのではないでしょうか。