地域性

「地方創生」は手遅れかもしれない
http://gudachan.hatenablog.com/entry/2014/11/03/173658

そんな地方で鉄道を利用をするには特別な理由が必要になる。観光に他ならないだろう。

 この記事には同意できない点が多くあります。しかし,観光には地域性が必要という点は確かでしょう。観光とは日常性から離れて,珍しい光景を見に行くものですからね。ただし,観光に必要な地域性とは,地域に直接寄与するものではなくて,観光客にアピールして間接的に地域に寄与するものです。

 昔,新築する建築の地域性について議論したことがありました。その時考えれば考えるほど,意図的に地域性を出そうとすることは地域性に矛盾するような気がしてしまいました。鉄筋コンクリートの機能的な事務所建築に瓦を載せたりするわけですが,映画のセットみたいなキッチュな感じになります。キッチュとは俗悪趣味という負のイメージがありますが,かつての看板建築もキッチュといえばその極みです。それでも,時代を経ればもてはやされたりします。多くの人がノスタルジーを感じるのです。ただ,新しい建築は大抵安っぽい感じになってしまいます。デザイン力のある剛力の建築家はポストモダン建築などで一部の好事家に好まれたりもしますが,一般受けはしません。

 地域性の起源を考えると,地域の制約条件で否応なくそのような表現になっているものです。別に好きこのんでそういうデザインをしているのではなく,機能的にそうせざるをえないだけなのです。そういうものも時代を経て機能性が失われても様式として形だけが残ります。他の形を知らない地域住民にとってそれは空気みたいな日常で格別の感慨があるわけでもないでしょう。そこに,別世界の観光客が訪れて目にすると,違和感を感じる場合とノスタルジーを感じる場合があります。ノスタルジーを感じるのは,かつては自分たちもそのような形に接していたという記憶が有るからでしょう。ただ現在の自分たちの世界にはもう殆ど残っていないので珍しいわけです。何故残っていないかというと,それらの形を使うよりも,最新の技術による新しい形の方が必要な機能を安い費用で満たせるからです。満たすどころが機能は大きく向上します。

 だから,ノスタルジーを感じる形を日常的に使うのは難しい面があります。しかし,観光以外に生きる道がないのであれば少々の不便は我慢して,或いは不便を解消するコストを投じて利用することも有るわけです。このような集客効果を期待して,実体のない地域性を利用するのは総合的に考えた結果の一つの選択肢であり,批判を受けるようなことではないと思います。

 一方で,日常的に接する機能的デザインであり,かつ集客力のある「地域性」デザインは皆無に近いと,昔の議論の時に感じました。確かに北海道や沖縄には機能的意味のある地域性のデザインが有りますが,それらはあまり観光的集客力は有りません。観光的集客力があるのは,少し昔の地域性のデザインでノスタルジーを感じさせますが,機能性は劣ります。建築家の中には両立するデザインを主張する場合も有りますが,私にはこじつけの屁理屈にしか思えませんでした。ノスタルジーがあるとすれば,北海道なら開拓時代の臭いのするもの,沖縄なら赤瓦や琉球石灰岩の石垣の類です。それ以外の日本では技術の進歩で殆ど同じ画一的デザインで機能的には間に合います。そもそもの地域性がなくなっているので地域性のデザインも必要無いのです。

 リンク先の古い駅舎のデザインには私は地域性は殆ど感じません。鉄道は近代化された技術で全国を繋ぎ画一化を促進するものでした。駅舎はその近代化の象徴でもありますから,同じような西洋風木造建築のデザインであって,伝統的で地域性のある日本建築では有りません。そんなものであっても,時代が変わり都会では取り壊されてしまい目にすることが希になってしまうと,地方に残っている駅舎にノスタルジーを感じてしまいます。実際に過去に見た経験がなくても構いません。写真や映画や子供の頃の絵本で見たものであってもノスタルジーを感じることができます。行ったこともない外国の城塞や洋館に惹かれるのはそう言うことでしょう。

 このようなことから,古い駅舎のデザインを地域性豊かと呼ぶのは違和感が有ります。しかし,既に都会では存在しなくなっているという現実からすると,こんなものでも地域性と言えないこともありません。ただ地域で生まれ育った地域性ではなく,かつては何処にも存在していたものが,残ってしまったというネガティブな地域性です。積極的に残して来たわけでもなく,建て替える財源もなく仕方無く残ってしまっただけのものを逆手にとって利用するというのはポジティブとも言えますが。