過剰安全追及の弊害

 一般の人は意外に感じるかもしれないが,建築物の杭や地下については,通常,耐震診断や耐震補強は行わない。地下階が地震で構造的な被害を受けたことは多分なく,また,杭の被害はあるが,一般的に人命に影響するようなことはないからである。さらに,杭の耐震補強は困難で非常に費用がかかる。

 とはいえ,杭が被害を受けると,次第に沈下などが進んで,長期的にはその建物は使えなくなる可能性もある。そのため,極めて財産価値の高い建築物では杭の耐震補強を行うことはある。しかし,人命を優先するならば,そのような耐震補強を行うよりも,耐震性の不足する別の建物の地上構造の補強をした方がよい。使える資源と費用には限りがあるからだ。このことは新耐震設計法導入の時代から,建築の専門家の間で議論され,その結果,杭や地下の耐震診断や耐震補強は特別な場合以外は行うことは少なくなっているのだ。

 ところが,一般の人の感覚では基礎や杭は建物を支えているまさに「基礎」であり最も重要なものではないだろうか。確かに,基礎の被害はそれが支えている上部構造にも被害をもたらすという意味では重要ではある。ただし,基礎の被害で建物が瞬間的に崩壊し,居住者が圧死するというようなことは考えにくいのである。ピサの斜塔はいずれ転倒するかもしれないが,転倒の可能性が増してから,転倒するまでには,十分に避難する時間はあるので,観光資源として利用できるのである。慌てる必要はない。一方,上部構造の耐震補強は喫緊の課題である。

 以上のことは一般には十分理解されていないようで,かつて会計検査院が次のような指摘をしたことがある。ある官庁建物に耐震壁を増設する耐震補強を行ったが,荷重が増えて,杭の許容荷重を上回ったのである。しかし,設計者は杭の増設などは行っておらず,安全性不足の建物となっており,国損であるという指摘だった。一般の人は会計検査院の指摘はもっともで,設計者はなぜ杭の増設や補強を行わなかったのかと不思議に感じるかもしれないが,既存建物下に杭を増設するのは不可能ではないにしても,莫大な費用が掛かるのである。現実的にはそんな予算はなく,不可能だったのである。

 仮に,その建物の杭の補強を行っていれば,他の補強の必要な建物の手当てが出来なくなっただろう。他の建物が被害を受ければ死者がでるかもしれないが,その建物の杭の補強を行わなくても,遠い将来に建物が傾いて使いづらくなるだけで,人が死ぬことはまずない。

 というわけで,地上部の耐震補強の結果,杭や地盤の地耐力が不足するということは,よくあることなのだ。厳密にいえば建築基準法の基準を満たしていないが,耐震補強については建築確認申請不要とみなされることが多く,既存不適格であるものの違法建築にはならないと解釈される。頑なに基準を満たそうとすれば,弊害が大きくなるのが明白なので,現実的に考えなければならない建築の世界ではそのようになっていて,私はそれが正しいと考える。

 残念なことに,現実の被害よりも「基準」それも自分で定めた過剰な「基準」を守ることが重要な世界も存在するようである。一旦決めた以上,その「基準」が守られないとどのような被害が発生するのかは関係ないらしいのだ。