無から有は生まれない(信用創造は誤解を招く名称)

■ 誤解

 銀行が融資するときは、現金を貸すのではなく、融資先の事業者名義の預金を作ります。この預金には、裏づけとなる現金が必要という誤解を見かけました。銀行は預かったお金を貸しているという素朴な誤解の亜種かと思います。上のVlgrisさんのツイートはこの誤解の原因を突いていると思いました。

 信用創造という言葉は、無から有を産みだしているかのような印象を与えます。いうまでもなく、無から有は生まれません。Vlgrisさんが言われているように「正と負の同時発生」、つまり債務と債権が発生しているだけなんですね。銀行融資ではこれが二重に行われているという説明をこれからしますが、その前に、先ず、単純な事実を確認しておきます。

■単純な事実 銀行は相当する現金を持たずに融資できる

 銀行に尋ねれば、手っ取り早いですが、観測すれば尋ねなくても分かる事実です。

 もし、裏づけの現金を銀行はもっていなければならないのなら、流通している現金は、預貯金総額より多く必要です。しかし、日銀や銀行協会のデータを確認すると、通貨流通量130兆円に対し、預貯金総額1,000兆円です。預金に相当する現金を持つことは不可能です。

 また、預金等の一定比率(準備率)以上の金額を中央銀行日本銀行)に預け入れる準備預金制度があります。この準備預金が銀行の保有する現金に相当するので、預貯金以上必要ということになってしまいます。実際には1%程度なので、制度的にも預金に相当する現金を持つ必要はありません。

 なお、上記の事実に対して、現金でなくても、融資した預金には担保という裏づけがあるという少々後退した主張もあります。この主張は、裏づけを持つ主体を間違えています。担保は、融資を返済するという事業者の約束の裏づけであり、預金から現金を引き出せるという銀行の約束の裏づけではありません。担保とは、与信に基づく融資というよりは、先払いで担保を買ったようなものです。その先払いを現金ではなく預金で支払っているわけです。その預金の裏づけに相手の資産である担保がなるはずがありません。相手に対する約束履行の裏づけに相手の資産を使うようなものです。これは、債務と債権が二重になっているために混乱したのでしょう。

 さらに、銀行が預金額に相当する現金を持っているならば、引き出し不能になる取り付け騒ぎは起きようがありません。現実には、引き出すに十分な現金が銀行にないかもしれないと預金者が疑うので取付騒ぎが起こります。確かに、一斉に引き出されるだけの現金は持っていないので、破綻してしまいます。

■ 正と負の同時発生

 売買は、単に、商品とお金の交換であり何ら新しいものが産みだされるわけではありません。一方は商品が増え、お金が減り、差し引きゼロです。他方も商品が減り、お金が増え同様に差し引きゼロです。

 借金の場合は、一方はお金が増えるだけのように見えますが、債務がのこります。債務は将来お金を払う約束ですので、その時にお金が減り、差し引きゼロになります。貸した側は、最初にお金が減り、後で増えて差し引きゼロです。この約束の証書が借用書で、差し引きゼロになった時点、つまり返済した時に消滅します。

 本題の預金による銀行融資は、次の通りです。

 銀行は将来、現金を預金から引き出せるという約束をし、その証書が預金通帳です。事業者も、将来現金を返済するという約束をし、その証書が融資の借用書です。それぞれ、自分の証書を相手に渡し、相手の証書を受け取るので、差し引きゼロです。債務と債権(マイナスとプラス)の同時発生が、二重に起こっています。

 更に、将来、融資が返済されれば借用書は消滅し、預金から現金が引き出されれば預金は消滅します。実際には預金の方は、なかなか消滅せず、預金のままで別の取り引きにお金のように使われます。そのため、預金は現金と同等に扱われ、現金通貨や預金通貨と呼ばれます。この二つを合わせてM1(マネー1)と言うとマネーサプライの解説には書いてあります。

 以上の説明では「現金を渡すという約束」と書きましたが、実際には殆ど現金化されることなく、正に預金通貨として流通しています。証書の約束が果たされないかぎり、通貨として市場で流通し続けます。

 現金もこの証書の一種、つまり借用書ですが、誰が何を約束しているのでしょうか。金本位制の時代は、政府が金との交換を約束していました。現在の管理通貨制度では、そのあたりが不明確ですが、MMTは、納税免除の約束と説明しています。これはそのように解釈すれば辻褄はあうという後付けの説明であり、実際に明確な約束はないので、スッキリしません。

 説明理論がどうであれ、現実には、商品等と交換できる約束があると信じて国民は現金を使っています。誰を信じているかというと、とりあえずは取引相手ですが、つまるところ発行者である政府日銀なのでしょう。現金も何かを約束した証書に過ぎないのですが、あまりに信用されているので商品等と同じ実体価値とみなされています。今では、証書は紙切れですらなく単なる電子データ記録になっています。ここまでくると、約束の記録に過ぎないと分かり安くなります。政府日銀ほどではありませんが、国民は銀行預金も現金と同等に信用して使っていますので、実体価値があるかのように誤解してしまったのでしょう。誰だって、借用書を書くことぐらいできます。ただ、銀行ほど信用がないので、受け取ってもらえないかもしれませんし、通貨になることもないだけです。

 以上が無から有が生まれるという信用創造の誤解の原因だと思います。現金も預金も将来の実体価値と交換を約束する証書でその時点では何も生み出していないのですが。

■ 有が生まれるとき

 では、商品やサービスなどの実体価値はどこで生み出されるのでしょうか。いうまでもなく、融資が行われたあとの生産活動によってです。融資は自己資金がなくても生産活動を可能とし、経済を成長させる意義があると言えます。融資は投資であり投機ではありません。投資とは、投資対象の成長に期待して出資することで、それに対して投機とは、価格変動による売却益を得るものです。益の裏側で誰かが同額の損失をするゼロサムゲームです。生産活動によって投資対象は成長しますが、投機では生産活動は行われません。

 そして、生産活動を促す融資の目的から考えると、担保は目的が達成できなかった場合の銀行の保険に過ぎません。銀行が担保を手に入れたときには、事業者は何も生み出しておらず、融資は失敗しているわけです。