犠牲 ー 自動運転事故

 HIROSHI YASUKAWAさんの自動運転サービス開始に関するツイートの軽い炎上を目撃しました。「技術開発のため犠牲を認めている」、「技術者倫理に悖る」などと批判されています。これ、どうも、内容ではなく「犠牲」という刺激的な言葉への反応のようです。

 この経緯を辿ると、最初のツイートではHIROSHI YASUKAWAさんは「犠牲」という表現をしていませんが、次の挑発的な引用リツイートで「尊い犠牲」という言葉が出てきます。

 それに対して、HIROSHI YASUKAWAさんは誤解であると言いながら、自らも「犠牲者も出ます。」と言ってしまいました。(図a.)その結果、自動運転サービスは、犠牲を伴うものという前提になり、他の人の批判も招きました。

 しかし、元の国交省の記者発表資料を読むと、どうも違います。既に自動運転技術の実証実験は行われており、その結果から国立研究開発法人産業技術総合研究所が開発した自動運転車が(レベル4)として認可されています。それを用いた自動運転サービスを事業者が登録したという内容です。

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 現在の車でも事故はあり、実証実験で事故率がそれ以下になったのでレベル4に認可され、限定的にサービス開始しただけでしょう。HIROSHI YASUKAWAさんは、サービスによって犠牲者が発生すると認識しており、それでも、将来の事故の減少が大きいから意義があるかのように書いていますが、そもそも、サービスによって犠牲者は増えません。(図b-1)

 結局、現実の自動運転サービスとは違うHIROSHI YASUKAWAさんの頭の中の自動運転サービスをめぐるやり取りだったとおもいます。

 通常、犠牲者とは、他者の利益のために、自分の不利益になる行為を強いられる者、あるいは自らの意志で行う者というような意味合いで使われます。一方、自動運転サービスを利用する人も事業者も利用者の不利益になるとは思っていないはずです。現代では、倫理的に犠牲を伴う技術開発は認められません。将来の死を減らすためでも、現状から一時的に死を増やすこと、つまり将来の人のための犠牲は許されなくなっています。

 ひと昔前は、このような犠牲は尊いとされていました。工事で大きな犠牲者を出しても、トンネルやダムが建設されました (図a) 。それは、その時代の生活が死を意識させる厳しいもので、一刻も早くインフラを整備する必要を感じていたからでしょう。現代ではそこまでの切迫感がないのかもしれません。それは先人の犠牲によるものなのですが。

 もちろん、現代でも交通事故や建設事故の死者はゼロではありません。それは定常的にありうるもので、増えなければ大きく問題視はされません。ただ例外があって、増えてなくても、耳慣れない死だとどうも犠牲の様に感じるようです。今までゼロだったのがプラスに増えたように見えるからです。例えば、ワクチンなどの新薬による死の類です。新薬で命が助かる人の方が多くても、病気による死と新薬による死は違うもので、今までなかった新しい死が増えたと恐怖を感じる人がかなりいます。これは、将来のための犠牲ではありませんが、自分以外の人のために自分が犠牲になったように感じるのかもしれません。最初から、利益を得る人と犠牲になる人が決まってはおらず、運悪く犠牲になるだけですが、運が悪いのは、自分の落ち度ではないので、理不尽に感じるのでしょう(図b-2)

 このような人間の心理があるので、おそらく、自動運転で死者が出ると、マスコミは大騒ぎすると予想します。人間の運転で死者が出ても、関心を惹く要素がないと報道されませんが、今までは無かった自動運転による死は、理不尽な犠牲のように見え、ニュースバリューが増すのではないでしょうか。それでも人間は次第に慣れますね。最初は、目新しく恐ろしい死だったものがそのうち普通の死になります。交通信号のトラブルも稀に起こりますが、「危険な自動化による犠牲!警官による交通整理の復活を求める」と報道されることはありません。