永遠の意識の諸問題

 前記事の続き。

■既に永遠の意識を手に入れた人がいる

 率直に言って,コピーの意識がどのように感じているかはどうでも良いです。オリジナルの私の意識には,どうせ分かりませんから。コピーは永遠を手に入れますが,そのことで,オリジナルの私も永遠を手に入れたと感じる事ができるのかが私の関心事です。コピーが永遠を手に入れ死の恐怖から解放されたことで,オリジナルの私の意識も解放されるのかが当面の懸案です。

 幸いなことにそれなら分かります。なにしろ自分の気分ですから。それでどうかというと,私は私のコピーが出来ても死の恐怖は無くならないと思います。コピーは自分に似ている他人に過ぎないとしか感じられないからです。それは自分に似た子どもが生き残るとしても,死の恐怖が無くならないのと同じです。しかも,コピーは子どもほど自分に似ていません。第一見た目が全然人間らしくありません。いや,それは技術的に解決できるでしょう。しかし,どうしても解決出来ない違いがあります。永遠性です。自分は死にますが,コピーは永遠で,年も取りません。決定的に違います。

 不老の問題は,既に手塚治虫も指摘しています。我が子トビオの分身としてロボットを作った天馬博士は最初は喜びに満ちていましたが,やがて不満を感じはじめます。ロボットは成長しなかったからです。見た目は我が子に似ていても別人でしかありませんでした。トビオの分身はサーカスに売られ,名前もアトムとなり名実ともに別人になりました。

 コピーという技術に頼る限り,この不満は解消できません。自己同一性とは自分が唯一の存在であるということが肝要ですから,別の個体はどんなに似ていてもそれは他者です。ただ,コピー以外の手法で永遠性を手に入れられると考える人もいます。

 それは,心身二元論者です。独立した魂の存在を信じる人です。彼らを満足させるにはコピーを作ってはいけません。いや作っても良いのですが,コピー誕生と同時にオリジナルは消滅させ,あたかも魂がオリジナルの肉体から,コピーの機械に乗り移ったかのように見せかける必要があります。この様にすることで,唯一無二の魂が永遠に生きているように感じる事が出来ます。

 大変喜ばしいことですが,二元論者には,別にコンピューターへの意識のアップロードのような技術は不要です。そもそも二元論者とは魂つまり意識の永遠性を最初から信じているわけですから,コンピュータ技術など余計です。不滅の魂が仮の宿の肉体を渡り歩いているという認識であれば,最初から死の恐怖は無いはずなのです。なお,生まれ変わりで前世の記憶は無くなりますが,生まれ変われるという認識があれば十分です。

 一方,私の様な唯物論信者は、死の恐怖を免れる事は出来ません。たとえどんなにコンピュータ技術が進化して,自分とうり二つの意識を生み出したとしても,所詮それは別人としか認識出来ません。悲しいことですが,諦めるしかありません。ただ,意識や肉体は滅びますが,永遠とは言わないまでも後世に伝わるものも有ります。それは慰め程度にはなります。


■永遠の不都合

 「夢幻諸島から」の「コラゴ 沈黙の雨」に次のくだりがあります。

 ・・・しかしながら(不死人の)7名のうち6名が既婚者あるいは永続的な関係を、結んでおり,5名に子どもがいた。時の経過とともに,彼らの家族にどんなことが起こるだろう,とカウラーははっきりほのめかしている。

 不老不死は実際上,様々な不都合が生じるという示唆です。それはそうでしょう。人間は成長し,老化し,やがて死ぬことに合わせて,社会は作られています。そこにいきなり不死人が混ざり込んだら,軋轢や摩擦が生じるのは避けられません。

 映画「ニューヨークのゴースト」は,幽霊が残された恋人の悲しみを癒す泣けるファンタジーです。この種の話では,幽霊がこの世に存在出来る期間が限定される設定になっているのが殆どです。決して永遠の命が復活する話ではなく,幽霊も生きている人間と同じような限界があるのです。

 仲間由紀恵主演の「ゴーストママ捜査線」でも殉死したお母さんの幽霊が悲しむ子どもの成長を助けるという筋でした。この場合もお母さんの幽霊はやがて天国に去っていくというちょっとウルッとくる結末となっています。もし,幽霊が永遠にこの世に復活してくれたらハッピーかというと,喜んでいられるのは最初のうちだけで,そのうち新たな悲劇を生み出すのは必至です。しかも,その悲劇は,妙に現実的で身も蓋も無く,ファンタジーにふさわしくありません。いわば,突っ込みを入れられたお笑いになってしまます。

 この種の話の笑える所は,幽霊のような超自然的でもの凄い存在という設定にも係わらず,そのもの凄い存在が解決する問題は,日常的なものであり,しかも解決方法が実に人間的というところです。もちろん,一部に超自然的な力を使いますが,それは味付けに過ぎません。超自然的な力が使えるなら最初から使っていれば簡単に問題解決できるはずなのに,最後も最後のピンチになるまで使いません。魔法や超能力はやたらにつかうものではなくて,クライマックスで使う約束になっています。

 仮に,そのようなお話上の都合を気にしないで,魔法や超能力が自由に使えるとしたらどのような事になるか,空想してみるのも一興です。そうすると,忽ちこの世の中はめちゃくちゃになってしまい,根本的に再構築する必要性が露わになります。それほど,魔法や超能力はインパクトのある技術革新なのです。インパクトが有りすぎて,具体的な再構築は殆ど想像できません。私たちの想像力はその程度のものです。それは,現実の技術革新による未来予想図をあとから振り返ってみると,レトロフューチャーという戯画になっていることからも察しがつきます。

 永遠の意識とは幽霊の復活に相当するインパクトがあります。すぐに思いつく不都合の他にどんな影響があるのかとても想像できません。


■永遠の意識である感じ

  永遠の意識がどんな感じなのか想像出来ませんが,推測出来る部分もあります。先ず思うのは,感情がなくなるだろうということです。永遠を手に入れてしまえば,一時の出来事に一喜一憂する必要がなくなります。なぜなら取り返しのつかない失敗というものが無くなると思われるからです。無限の生があるのですから,いくらでも取り返せます。一つの失敗の重みは無限分の有限つまりゼロでしかありませんから,悲しんだり落ち込んだりする理由がなくなります。同様に喜びもゼロになります。

 これは,どういう事かというと,神様になったと言えます。有限の生しか持たない人間のように些事に煩わされることなく,淡々と永遠に存在し続けるのです。神様は有限の存在であった時の私の記憶も持っていますが,おそらく冷ややかに振り返っているのですよ。そんな時代もあったねと〜♪。

 いや,老化による死はないとしても,事故死が有り得るのなら,取り返しのつかない失敗もあります。その場合は感情も残っているでしょう。神様のような完全な存在ではなく,人間的な存在のままです。それは良いとしても心配な事もあります。永遠の時間があるのなら,取り返しのつかない失敗の機会も無限にあり,いずれ死に至るでは有りませんか。そのストレスはまさに死の恐怖です。むしろ,有限の意識が感じる死の恐怖より恐ろしいとも言えます。何しろ死の危険は際限なく降りかかってきて何時終わるとも知れないのです。終わったときが死です。これは,無限の弾倉がある銃によるルシアンルーレットですよ。

 いずれにせよ,有限の意識とは随分違った感じだろうな。