スポーツの性別確認は性別確認ではなくなっている

 先ず、前記事の要点を示します。

銭湯や公衆トイレのような他者と共用する空間の利用区分は、他者がどう感じるかで決まり、自分がどう思うかとは無関係。

 実際の運用は、見た目という大雑把な判断で十分だと思います。空間を共有する他者にどう見えるかが問題だからです。

 一方、競技の性別確認などのクラス分けは、厳密に行われます。クラス分けを行う理由は、公平性の為ですが、「不公平だ」と異議申し立てが常に発生するので、厳密にならざるを得ません。ただ、異議申し立てが起こる原因には、公平性のためのクラス分けに本質的な困難があることもあります。矛盾といってもよいかもしれません。

 身体能力に違いがあるのは不公平だとして、出来るだけ同じ身体能力に揃えるのがクラス分けです。ところが、競技は身体能力の優劣を争うもので、身体能力に差があることが前提なので、根本的に破綻しています。全く公平にすれば勝負はつかなくなります。したがって、現実は、有る幅を持ってクラス分けをするという妥協になっています。つまりある程度の不公平は認めているわけです。そして、その幅を決める合理的理由は存在しません。幅を狭くしていくと、最終的に各クラスに競技者1人となり、競技になりません。一人は極端ですが、枠の人数が少ないと競技として面白くないのである程度の人数になるように決められます。

 選手にとって、どのクラスに振り分けられるかは、勝負に係わりますので、異議申し立てが頻発しないよう、クラス分け基準は厳密に作られます。かつての「チンチンがあるから男」というような大雑把な判定では済まなくなりました。しかし、どのような基準にしても、前述の矛盾があるので決着はしません。その時々の選手に有利になるように綱引きが続けられます。実際に、体重制の競技のクラス分けは良く変更されます。

 このような問題はあるものの、公平性を確保するために、身体的条件を競技が成立する範囲で揃えるのが競技区分です。ところが、性自認を認めれば、公平性など確保できるわけがありません。男性の肉体を持つトランス女性が女性枠で出場する事態が欧米で起こってしまった結果、公平性は吹っ飛んでしまいました。このような事態になったのは、女性枠に出場できず、性自認を否定されたと感じたトランス女性に配慮したからです。

 しかし、性別と競技の性区分はもはや無関係になりつつあります。現在では女性枠に出場できないのは女性ではないからとは言えなくなっています。例えば、オリンピックの女性枠は、身体能力と関係のあるテストステロン値で決められています。生物学的に女性でも値が制限を超えれば出場できません。また、テストステロン値が高く女性枠に出場できない場合は、男性枠で出場できる場合もあります。現在では、女性枠という表現は正確ではなく、身体能力が低い枠に過ぎないのが実態でしょう。

 繰り返すと、身体能力が低い枠で出場できなくても、女性と認められなかったわけでも、性自認を否定されているわけでもありません。単に、身体能力が高いと言われているだけです。成人がジュニア枠には出場できず、若いとシニア枠には出場できず、健常者がパラリンピックに出場できないのと同じようなものです。

 スポーツの性別確認で、鬱や自殺という悲劇まで起こったのは、女性のアイデンティティーを否定されたように感じたからかもしれません。しかし、そのように考える必要は、もはやなくなっていると思います。とはいえ、そう簡単に割り切れないのが人間の気持ちなので、今後も揉め続けるのでしょうね。