人種による知能の平均値に違いがあると何か困るのか

差別発言でカネに窮したDNA二重らせん発見者 ノーベル賞メダル競売の栄光と転落 
http://blogos.com/article/100065/

 ワトソンの発言の詳細を知らないので,その是非はわかりません。優生学的発言もあったとしたら,差別かもしれません。ただ,人種によって「知能」に差があるとの発言自体が,則差別になるわけではありません。これを考えるに当たっては,「知能」の定義が問題になります。例えば,「空間把握能力」,「地図を読む能力」,「言語能力」,「人間関係把握能力」などは男女差があるとよく言われますが,性差別であるという批判はありません。また,これらを総合した「知能」というものは存在しませんので,ある能力は男が優れ,別の能力は女が優れているというだけのことです。ただ,単なる子供の発達度合いを表す知能指数を一般的な知能とみなす誤解があるため,知能の違いに言及しただけで,差別批判がわき起こるのかもしれません。

 優劣の評価軸は複数あって,それらが独立だとしたら原理的に総合的な優劣は付けられません。しかし,時代や地域によって重視される評価軸というものはあり,現代の一部地域では知能関連が重視されています。といっても,決して普遍的なものではありません。差別批判には現代の一部地域の評価軸が普遍的という誤解もあるのではないでしょうか。下記リンク先のブログにはそういう主旨が述べられています。

ワトソン博士は正直に良いこと言った ー satolog
 http://d.hatena.ne.jp/satohhide/20071021/1192898142

 違いが有ろうが,無かろうが差別は許されません。違いが有るはずがないという信念は,違いが有れば差別は許されるという考えの裏返しの可能性があります。 この考えは違いが有って欲しくないという願望に繋がりますが,人種以外での違いはいくらでも存在します。例えば知的障害者と健常者には違いが有ります。そもそも,一人ひとりの能力に違いがあります。その違いで世の中の対応も違って来るわけですが,それがすべて差別というわけではありません。平均値に過ぎない集団の属性から十把一絡げに個人の能力を判断するのが差別でしょう。事実を述べることが差別ではなく,事実の解釈や判断の段階で差別が生まれます。解釈や判断に都合が悪いからといって事実は変えられません。