黒いうどん ― しつこく眠り姫問題

 子供の頃に読んだ小話です。

 

「このうどん黒いよ」

「そばだからだよ」

「離れても黒いよ」

 

 ダジャレですが、眠り姫問題の決着の付かない論争に似ています。「そば」を麺類の蕎麦と解釈する人と、位置の「傍」と解釈する人で話が食い違うのは当然で、さらに一人の頭の中で二つの解釈が区別できないと奇妙なパラドクスになります。

 

 「目覚めたときに表である確率」の解釈もいろいろです。一つの解釈は、「目覚める可能性のある日数(3日)に対する表が出た後に目覚める可能性のある日数(1日)の割合」です。目覚めた場合の条件付き確率になります。もう一つの解釈は、文字通りに、コインを投げた時に表が出る確率です。条件がない事前確率になります。このどちらの解釈かはっきりすれば、論争になるような難しい確率の問題ではありません。

 

 ただ、解釈の自覚があるつもりでも、途中でぶれてしまうのが眠り姫問題の落とし穴です。例えば、目覚めた時に眠り姫には新しい情報が与えられていないので、事前確率と変わらないと考える人もいます。かつての私がそうでした。この考えでは、目覚めているのが総ての事象で、眠っている状態は最初から除外されています。だから、目覚めは新しい情報ではないわけです。そこで、月曜日の場合に表である条件付き確率を考えると、直観と違う2/3となって混乱します。

 

 この考え方の最大の特徴は、起こりうる可能性として、コインの表が出た場合と裏が出た場合の2つしか考えていない点です。月曜と火曜は、コインのどちらかが出た後に、一人の眠り姫が続けて経験する一つの出来事(根事象)という解釈なのです。この解釈は自然と言えば自然ですが、月曜と火曜を分離して考えていないので、月曜である場合の表の確率などを考えることができません。根事象はコインの表裏の二つだけで、曜日や目覚・睡眠の情報に意味ないのですからどう考えても無理です。目覚めたときに質問したことが新しい情報ではないというのは、そういうことです。にもかかわらず、月曜日で有る場合の表の確率を計算するために、途中で方針転換して、月曜と火曜を分離するという首尾一貫しないことをするので、奇妙なことになります。

 

 また、日曜日の夜に振られたコイン表の確率が、その後の眠り姫の目覚めや睡眠によって変わるのが不自然という人もいます。これは、事前確率と条件付き確率の混同による錯覚です。目覚めが、それ以前に振ったコインの表の事前確率を変えないのは当然ですが、条件付確率は、変わります。

 

 目覚め前には、その後起きる出来事に4つの可能性があります。「表が出て月曜に目覚める」、「表が出て火曜に寝ている」、「裏が出て月曜に目覚める」、「裏が出て火曜に目覚める」です。目覚めによって、今日が「表が出て火曜に寝ている」である可能性が無くなります。その結果、今日が表の出た後の日である確率は2/4から1/3に変化します。

 

 AとBのじゃんけん2回戦問題でも、1回戦でAが勝つ確率は、情報が何もなければ、1/2ですが、結果を知っている出題者からAの2連勝は無かったという情報が与えられれば、可能性は4つから3になり、1回戦でAが勝った確率は1/3と見積もりが変わります。仮に、Aが1回戦で負けたという情報が与えられたなら、Aが1回戦で勝った確率はゼロになりますが、不自然どころか至極当然です。

 

 このように、「目覚めたときに表である確率」という言葉から思い浮かべるイメージが違えば、議論は平行線になり、1人の頭のなかで区別できなくなるとパラドクスと感じるのだと思います。これまで度々述べてきたように、主観確率人間原理などの哲学的説明は無用です。ただ、言葉の解釈という点では、哲学の主要なテーマかもしれません。

 

 哲学の専門家からは怒られそうですが、「哲学とは、言葉使いの間違いを見つける学問である」という説明が腑に落ち、気に入っています。土屋賢二氏の「ツチヤ教授の哲学講義」では、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を喫茶店でのコーヒーの注文に例えてします。お客が「コーヒー」と注文して、お客が心の中にイメージした「コーヒー」と同じものをウェイトレスが持ってきてくれれば「言語ゲーム」は成立します。ところが紅茶が出てきたり、ウェイトレスがコーヒーを飲んだりという間違いが哲学では起こります。原因は、お客とウェイトレスがイメージする「コーヒー」が違うためです。それを解明するのが哲学だそうです。

 

 眠り姫問題でも、心の中で思い浮かべる「コーヒー」のイメージが人によって違っているか、同じ人の中に違うイメージが入り混じっているのだと思います。