他者の推理に依存する推理

  • パラドクス

 前回の「帽子色当て問題」では、他者の推理力に依存した推理になっています。そこがどことなく釈然としないところです。問題をもっと単純にしてみても同じです。

2人帽子色当て問題

 白色の帽子2個と赤色の帽子1個から取り出して二人にかぶせる。自分の帽子の色は見えないがもう1人の色は見える。自分の帽子の色を推理して答えなければならない。あなたがもう1人をみたら白色であったので、次のように推理した。

(推理)

自分(B)が赤色と仮定すると、相手(A)は赤色の帽子を見ており、自分(A)が白だと分かる。ところが、相手(A)は答えないので、仮定は間違っており、自分(B)は白色である。

  この推理は正しいように思えますが、パラドクスになるんですね。

(パラドクスの推理)

自分(B)が白色と仮定すると。相手(A)は自分(B)と同様の状況なので、前述の推理によって相手(A)は、自分(A)が白色と分かる。ところが相手(A)は答えないので仮定は間違っており、自分(B)は赤色である。

  もっと簡単にいうと、「相手(A)は自分(B)の白をみても推理できない」という前提から、「自分(B)は相手(A)の白を見て推理できる」ことになったので明らかにどこか変です。自分も相手も全く条件は同じなのに、自分には分かるが、相手は分からないという非対称性があります。しかも、相手が分からないことを使って自分だけ分かってしまうのですね。そんな都合のいい話はないから、パラドクスになるのじゃないでしょうか。

 

  •  推理に必要な情報の非対称性

 結論を言えば、自分には、相手が推理できないという情報があるのに、相手にはないという非対称性があるのだと思います。

 次の文は、2人帽子色当て問題で使う推論で、なりたちます。

 

文1「自分が赤ならば、相手は白である

 

文1を対偶にしてみれば、自分と相手は全く対称になっています。

 

文2「相手が白でないならば、自分は赤でない」すなわち

  「相手が赤ならば、自分は白である」

 

 この推論だけで他に情報がなければ、自分の帽子の色は推理できません。では、ほとんど、同じ文ですが、次は成り立つでしょうか。

 

文3 「自分が赤ならば、相手は自分が白だと推理できる」

 

 その対偶は次の通りです。

 

文4「相手が自分を白だと推理できないならば、自分は白である」

 

 文3文4が成り立つには条件が必要です。帽子の色は客観的な事実ですが、推理は推理力に依存します。従って先ずは完璧な推理が出来るという前提が必要ですが、その前提は認めることにします。それでも、相手が答えないのは「自分の色は分からない」と推理したからなのか、まだ推理中なのか不明です。相手が推理を完了したのか確認しないと、文4は使えません。

 しかし、相手(A)に分からなかったことを確認すれば、Bは自分が白だと推理できます。そして、Bが推理できたことを知った時点でAは推理できなくなります。つまり、与えられる情報に非対称性があるので、Bは推理でき、Aは出来なくなります。これは3人の場合も同じでA、B、Cの順に推理できたかを尋ねていけば、Cは推理できます。すなわち,Aが推理できないと分かれば、BとCの二人とも赤であることはないと推理できます。この時点でCが赤であれば、Bは自分が白だと推理できますが、Cは白なのでできません。次にBが推理できないと分かれば、Cは自分が白だと推理できます。自分以外は全員、推理できないという情報を得て、初めて自分は白だと推理できます。そして、それまでは自分も推理できていなかったということは誰にも教えてはいけません。先を越されます。

  •  他人の気持ちは尋ねなければわからない

 最初の推理の間違いは、自分以外のものが答えないことを、推理が出来ないと勝手に決めつけたことだとと思います。実は、自分は赤なのに相手はまだ考え中かもしれません。2人の場合は、その可能性は少ないですが、逆に相手に先を越されるともう推理できなくなります。そこで、間髪入れずに「白だ」と答えて、帽子をみるとなんと赤です。最初の問題をもう一度見てください。「あなたがもう1人をみたら白色であった」であって、「二人に白い帽子を被せた」とは書いてありません。

 

(4/11 追記)

 最初にパラドクスと書きましたが、「専門的」には、パラドクスとは言わないようです。何の専門なのかよくわかりませんが、この追記の参考にしたスマリヤンのパズル本「この本の名は?」にそう書いてありました。帽子の色あては、単に、推理が間違っているということらしいです。では「専門的」には、パラドクスとはどういうものをいうのかと言うと、真とも偽ともいえない基底性のない文に関わる矛盾らしいです。基底性がないとは、具体的な意味がない(何も情報をもたらさない)ということです。

 文が真か偽を判断するためには、先ずその文の意味を理解する必要があります。「東京は日本の首都である。」と言う文の意味を私は理解していて、東京が日本の首都であることを知っているので、真であると判断できます。ところが「この文は真である。」という文の意味は、この文の真偽に関わることなので、先ずはこの文の真偽を知っていなければ判断できないという循環に陥ります。仮に真と仮定しても偽と仮定しても矛盾は生じないのでパラドクスにはなりませんが、真とも偽ともいえる意味のない文です。一方、「この文は偽である。」も基底性のない文ですが、真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が生じるので真とも偽とも言えない意味のないパラドクスになります。

 帽子の色は具体的事実なので、帽子の色を推理したいくつかの文の真偽は定まります。つまり、基底性はあるので、専門的にはパラドクスとは言わず、単に推理が間違っているので矛盾が生じただけです。その間違いについて私の見解を書いたのが本文です。