公開鍵暗号と南京錠(ネタバレあり)

 先週,東野圭吾のデビュー作「放課後」を図書館から借りて読みました。1985年の江戸川乱歩賞受賞作です。その中に南京錠を使った密室トリックがあります。はたと気づいたのですが,南京錠と公開鍵暗号には似たところがあります。作中の犯行状況は次の通りです。

 女子高の教員用男子更衣室で死体が発見された。入口の引き戸には内側から心張り棒がしてあり,密室状態であったため,自殺に見えたが,動機が全く無い。ただ,女子更衣室との隔壁の上部が空いており,乗り越えることができた。しかし,女子更衣室の入り口には南京錠が施錠されていて,全体として密室であることには変わりはなかった。鍵は犯行が行われる少し前に更衣室を利用したHが持っていたが,Hにはアリバイがあり犯行は不可能である。合い鍵は厳重に管理され,持ち出されてはいない。外から心張り棒をすることは不可能なので,犯人は犯行後に心張り棒をし,女子更衣室から外に出て,施錠して立ち去ったとしか,考えられないが・・・。

 小説の中盤で聡明な女子高生がトリックを解明します。

 Hは南京錠を開けて更衣室に入ったが,開けた南京錠を戸口に掛けたままにしていた。物陰に潜んでいた犯人は,その南京錠をよく似た偽物とすり替えた。着替えが済んだAは偽物と気づかずに,南京錠を閉めて立ち去った。犯人は,偽南京錠を開けて更衣室に侵入し,被害者を待ちぶせ,犯行を行い,心張り棒をし,本物の南京錠を閉めて立ち去った。

 鍵は厳重に管理されますが,錠は誰でも扱えるというのが,このトリックの要点です。ご存じの通り,公開鍵暗号とは,暗号化の鍵と復号化の鍵が異なる暗号で,暗号化鍵を公開することによって,だれでも暗号文を作成できますが,復号鍵がないと解読が出来ません。同様に,南京錠は鍵がなければ解錠できませんが,施錠はだれでもできます。犯人はこれを利用したわけです。

 だいぶ以前に読んだ「暗号のおはなし」(今井秀樹 著)という本には,公開鍵暗号をメールボックスに例えて説明していました。メールボックスの中のメールは鍵をもっている受取人しか開けて読むことができませんが,投函は誰でもできます。そうででないと,郵便配達員が困ります。南京錠も似たような仕組みです。原理的には,公開の暗号化鍵から秘密の復号化鍵を知ることは可能ですが,計算量が莫大で現実的には不可能というところが,公開鍵暗号のミソです。南京錠も錠を分解して調べれば鍵を作ることは可能ですが,あまり実用的な犯行方法ではありません。しかし,南京錠を開けたまま放置するスキを突くという手があるわけです。公開鍵暗号も正攻法で秘密鍵を知るのは困難ですが,偽公開鍵を本物と勘違いするようなスキがあれば,安全ではありません。

 スキになりうる公開鍵暗号の問題は,二つほどあります。公開鍵が本物であることの確認が難しいことと,暗号文が偽物,つまり,なりすましの可能性です。これらについても工夫がされていますが,うっかり信用することもあります。振り込め詐欺みたいな心理トリックです。Hは偽物の南京錠を施錠し,本物の南京錠は正規の使用者Hではなく,犯人によって施錠されていました。これによって,誤ったメッセージを伝え,自殺に見せかけることができます。

 ところで,「放課後」を読んだ人には蛇足ですが,女子高生が解明したのは犯人が仕掛けた偽トリックでした。これによって,誤ったメッセージを伝え,犯人にアリバイがあるように見せかけていたのでした。全く,油断もスキもあったもんじゃない。