■ 「は」の重複
「私は、酒は、飲む。」
この文をワードに入力すると、表現の推敲に引っかかって二重アンダーラインが付けられてしまいます。右クリックすると「助詞の連続」と表示されます。文法的に間違いではないと思いますが、稚拙というか違和感がありますね。何故でしょうか。主語(正しくは主格)が二つあるからと考える人がいますが、少なくとも、「酒」は主語ではありません。「酒」は、「飲む」の対象ですからね。主語にするなら「酒は飲まれる。」でしょう。
■ 題説構文
一方、「私が酒を飲む。」なら至って普通の叙述構文です。また「私は、酒を飲む。」や「酒は、私が飲む。」という文も普通です。後の二つの文は、題説構文と言われます。「私は」や「酒は」は、主格ではなく題目部で、係助詞「は」で示されます。その後に題目についての解説部が続きます。
題説構文は、自問自答のようなものです。「私について解説すると酒を飲む奴なのだ。」や「酒について解説すると私が飲むものだ。」という意味合いです。「私は、何を飲むのか。」への答えが「酒を飲む。」であり、「酒は、誰が飲むのか。」への答えが「私が飲む。」です。逆だと回答になりません。
つまり、質問の対象が、題目部で、回答が解説部で示されます。題目部の「私」が誰なのか読者は知っていますが、解説部では、新しい情報が示されます。
■ 稚拙に感じる理由
以上の題説構文と叙述構文の分類は、一つの学説で、異論もあるようですが、これを前提にすれば、「私は、酒は飲む。」が稚拙に感じる理由を次のように説明できそうです。あくまで私見ですが。
1.文型からすると、「私は」と「酒は」に対する解説部(回答)は、「飲む」だけで、回答として不十分。
2.意味的には、「私は」に対する回答は、「酒を飲む。」で、「酒は」に対する回答は、「私が飲む。」と解釈できないこともないが、助詞「は」を「を」に変えたり「が」に変えることになる。
3.つまり、題説構文の文型と意味の解釈が整合していないので、言いたいことは分かるが、どこか稚拙な印象になる。
4.なお、「私は、彼は、酒を飲む。」の場合は、二つの題説部に対する解説部が全く同じである。文型と意味の解釈は整合しているが、普通は、「私と彼は、酒を飲む。」と言う。「私は、彼は、…」では、並列の助詞「と」をうまく使えないような稚拙さがある。
「私は酒は飲む」の場合は、「私と酒は飲む」とは、できないため、稚拙さが多少減る。
■ 読みにくい
文型と意味は整合しており、稚拙ではないものの、すこしばかり読みにくい次のような例もあります。この例は、よく見かけます。
「飲み物は、私はコーヒーで、彼は紅茶だ。」
これは、複題説構文とでも呼べます。
ただし、二つの小解説部を読み終わるまで大題目部を覚えていなければならないので分かりにくいです。次の様にするか、文を分けると脳の負担が減って読みやすくなります。
「私の飲み物は、コーヒーで、彼の(飲み物)は、紅茶だ。」
「私は、コーヒーを飲み、彼は、紅茶を飲む。」
前者の題目は「飲み物は」であり、後者の題目は「私は」と「彼は」となります。
まあ、この程度なら覚えられますが、3段階、4段階と更に複雑になると記憶の負担が大きくなります。
「飲み物は、私は、朝はコーヒー、昼はココア、彼は、朝は、紅茶、昼は、緑茶だ。」
「飲み物は」の解説を期待して読んでいるのに、新しい「題目部」が次から次に出てきて「あれれ」とつんのめります。