義務選挙

参院選】「俺は俺でやる。だから投票に行かない」 棄権する20代の声を聞く
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僕の一票で何かが変わるとは到底思えないので選挙には行かなかった
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■棄権は特殊な行為ではない

 一票ぐらいでは何も変わらないという無力感は私も感じます。それは私だけじゃないはずです。なにせ,今回の参院選投票率は54.7%なので,半分近くの人が同じように感じていても不思議ではありません。それでも私は投票しましたけど,リンク先には,投票しないそれらしい理由が書いて有ります。でも,本音は面倒臭いだけじゃないでしょうか。憶測に過ぎませんが,私も面倒臭いのでそんな気がします。投票は権利であって,権利を放棄するのに尤もらしい理由なんか不要です。面倒臭いで十分の筈です。にもかかわらず棄権は批判されます。それは何故でしょうか。そんなことをあれこれ考えていたら,投票が義務になる可能性もありそうな気がしてきました。それについて述べてみます。

合成の誤謬

 経済学では「合成の誤謬」という言葉があります。ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では悪い結果をもたらすことです。選挙棄権はミクロの視点でも正しいとは言えませんが,それほど悪いことでもありません。しかし合成されるとかなり悪いといえます。「たった1票では焼け石に水」なのは事実で無力感を感じるのも無理はありません。ところが全員が同じように考えると更に困った事態になってしまいます。一人の募金なぞはゴミみたいなものですが,誰もがそのように考えると1銭も集まりません。環境問題の「共有地の悲劇」と同じ構造です。自分の家畜だけ共有地の牧草を食べさせても,何の影響もありませんが,全員が同じようにやりだすと,忽ち共有地は荒廃してしまいます。自分だけごみのポイ捨てしても,町の美観に大した影響はありませんが,全員が捨てだすと町はゴミ箱と化します。

■利己的行為

 個人の利益を最大化する戦略を全員が採るため,結局個人の利益も損なう均衡点に落ち着くというゲームの理論も似たようなことを述べています。ただし,ゲームの戦略や共有地の悲劇は自己の利益を最大化したいという利己心がもたらすものに対して,投票の棄権は権利の放棄なので少し違います。ただし,それは表面的なことで,以下に述べるようなことを考えれば結局のところ利己的行為と言えそうです。

 ゲームの理論では,他者の行動も予測した合理的な思考をするという仮定に基づいています。しかし,現実の人間はそこまで合理的ではなく,もう少しいい加減です。例えば,共有地の悲劇ゲーム理論的に考えれば,他者も家畜を放して放牧地は荒廃すると予測出来るだけの聡明さをプレーヤーは持っています。それでも荒廃するまでは自分の家畜に牧草を食べさせることが出来るのに対して,家畜を放さなければ全く食べさせることが出来ません。ならば,共有地の荒廃覚悟で家畜を放ったほうが得だと考えるわけです。これは徹底した利己主義です。それに対して,現実の人間の行動はそこまで打算的ではなく,もう少し安易です。自分だけ家畜を放しても平気だろうと楽観的に都合良く考えているだけのことが多そうです。

 つまり,「自分一人の行動はなんの影響力もない」と考える裏には「他の人は自分と異なる行動をしてくれる」という虫の良い期待があるわけです。ごみをポイ捨てする人は,町をごみだらけにしたいわけじゃありません。自分以外はポイ捨てしないので,自分一人ぐらいごみを捨てても何の影響もないと虫の良いことを考えているだけです。脱税する人は,財政を破綻させたいわけではありません。自分以外の納税で財政は維持され,その恩恵に預かれると都合良く考えているだけです。投票を棄権する人も,全員が自分と同じように考え,誰一人投票しないという事態はあまり想定していないのじゃないでしょうか。現実には,この程度の都合の良い利己主義が多そうです。

■非対称性と寄生

 このような考え方は,自分と他者の行動は異なるという非対称性を前提にしており,極論すれば犯罪者心理と同じです。大抵の犯罪者は,自分が犯罪被害者になることも,全員が犯罪者になることも想定していません。善良な被害者が存在して,自分だけは加害者でいられることが大前提なのです。つまり寄生者です。

 何とも都合のよい考え方ですが,利己的なのが人間の本性なので,自然なことだと私は考えます。念のため,自然なこととは良いことという意味ではありません。非対称な相手,例えば人間以外の動物に対しては,人間は寄生的態度を取っていますし,歴史的には人間同士でも圧倒的な社会的力の差によって寄生的生活をおくる階層も存在しました。というかまだ存在しています。とはいえ,人間に本質的社会的力の差は無く,力の差があるのはたまたまのことですから,非対称は持続せず,同じような利己的行動を採ることになります。そうすると前述のように社会全体の利益が損なわれます。人間にはそれに気づくだけの知性がありますので,公共とか倫理とか戒律という概念を作り出して,利己的な行動を制限してきたのだと思います。それだけでは不足となれば経済的誘導や法による刑罰というアメとムチの制度も作りました。

 都合のよい非対称性を前提にしている点で,犯罪も投票棄権も根は同じと私は思います。投票棄権は権利の放棄であり利己的な行為ではないように一見見えます。しかし,そもそもたかが1票と思っているのですから権利の放棄という実感はなさそうです。自分以外の他者の投票で民主主義社会が維持され,自分はその恩恵に預かりたいけど,面倒臭い投票はしたくないだけというのが実態ではないでしょうか。自分だけは面倒臭いことはしないのは利己的な寄生行為に過ぎません。自分の1票は何の影響ももたらさないと感じるのは,独裁者の出現抑止にも無力だから無駄と感じているのではないでしょう。そんな独裁者が現れないように他の有権者が投票してくれる筈なので,自分ごときが投票するまでもないという省エネの他力本願ではないでしょうか。

■寄生防止の社会的ルール

 繰り返しになりますが,省エネ他力本願の利己主義者が自然のままの人間だと私は考えています。投票棄権者の気持ちは自然であり,特殊でも異常でもないのは,約半分が棄権していることからも伺えます。更に言えば,環境に悪いことをするのも,犯罪を犯すのも自然な行為です。害が少なければ,それも見逃されますが,社会的害が無視できない程になると,社会的ルールで自然な行為を抑止する様になると前述しました。投票棄権が増えて社会的な不利益も大きくなれば,ルール強化が行われる可能性があるのではないでしょうか。

 選挙のなかった時代,あっても制限選挙の時代に選挙権獲得に奮闘した先人からすれば,選挙権は貴重な権利であって,棄権対策が必要になろうとは想像も出来なかったと思います。しかし,その価値が分からない人も存在します。話は飛びますが,教育も権利なのに,どういうわけが義務でもあります。ただし,義務とは子どもに教育を受けさせる親の義務であって,教育を受ける義務ではありません。それはそうですが,子どもに教育を受けさせるのは親にとっても権利であるはずです。しかし,その権利の価値が分からない親も世の中には存在しますので義務教育という制度があります。このようなことを考えていたら,義務選挙もあり得ないとも言えないような気がして来ました。状況次第ですが。