同性愛を恐れる理由

今日は同性愛の適応度と進化の話をしよう 
http://complexcat.exblog.jp/24519332/

ただ重要な前提として、別にヒトの社会や人権においては、生物としての適応的な説明なんて、極論すれば最重要課題とするかどうかは絶対的ではありません。このエントリは、「同性愛者は子孫を残せないので、生物学的におかしい訳で、自然の摂理に反する。」みたいな、いつもの「架空の生物学」への反論としての試論であることに留意して欲しいと思います。社会体制的な問題として反論できるのであればすればいいけど、「架空の生物学」を持ちだして批判するならば、こういう話で、論破されることになるというだけです。

 社会体制の根拠に持ち出した生物学が「架空の生物学」ではお話にならないわけですが,架空ではなくても,社会体制の問題に生物学的な事柄は最重要課題ではないと上記記事は述べています。同性愛については,既にcomplex_catさんが,専門的に「架空の生物学」だと論破していますので,それで話は終わっています。でも,生物学の見解は将来変わることも有り得ますので,仮に「架空の生物学」ではないとしても社会体制の根拠にはならないことについて以下述べます。例外的に,近親相姦タブーのようなものは社会体制的な問題の根拠に生物学がなっているようにも見えますが,同性愛の場合は根拠になりそうにありません。

 その前に,「自然の摂理」なるものを,それに反するものは存在しないという強い意味だとすると,専門的な検証をするまでもなく,同性愛は自然の摂理に反していません。なぜなら,同性愛は存在しているからです。従って,同性愛排除論者の言う「自然の摂理」はそれほど強い意味では無く,「同性愛は病気」程度の意味でしょう。この点についてはcomplex_catさんは詳しく述べていませんが,おそらく病気というのも難しそうです。そうでは有りますが,取りあえず「病気」と仮定して,社会制度的に排除されることになるかを考えて見ます。

 言うまでもなく,病人というだけで社会的に排除されることはありません。不治の病気や障害を負っていても社会で生きる権利はあります。とはいえ,排除されないまでも治療をすべきかという問題があります。治療の必要性については,他の病気でも本人が治療を望む場合に限られます。基本的に治療は個人の意志であって社会体制とは関係ありません。ただし,例外があって伝染性の病気では社会防衛上,治療や隔離が強制される場合があります。

 同性愛は病気であって排除すべきという考えは,伝染性の病気とみなしているのだと想像できます。同性愛に人類の多数が感染し,子孫を残せなくなって滅亡してしまう,と恐れているのでしょう。しかし,実際には同性愛が感染するという生物学的証拠はなく,妄想に過ぎません。従って,治療を要する社会防衛的理由もありません。

 それに,同性愛が感染すると空想しても,特に支障がないことも分かります。伝染病は寄生者である病原体が引き起こします。しかし,寄生者が宿主を全滅させてしまうと自分も滅亡してしまいますので,普通はそうはなりません。滅亡は無いにしても,大きな人口変動は社会的に望ましくなく,病気の苦しみがあれば個人的にも望ましくありません。一般的に伝染病にはそのような弊害があるので,治療や防疫が行われます。ところが,同性愛菌に感染した同性愛者に,社会的無理解という苦しみはあるにしても病気そのものの苦しみはありません。また歴史的にも同性愛に許容的な文化はありましたが,人口に影響を与えたというような事実はありません。つまり,人類の存続にとっても,感染した個人にとっても支障はありませんので,寄生というよりは共生に近いでしょう。非生産的な趣味が一部の人々の間で流行したとしても,別に何ら支障はありません。異性愛者も生殖を目的としないセックスを行いますからね。

 現実に戻りますと,同性愛排除論者も同性愛が病原菌によるものとはさすがに考えていないでしょう。あくまで,悪しき文化や思想に感染するという比喩的な意味であって,文化や宗教上の懸念に過ぎません。その懸念には生物学的な根拠はありませんが,文化・宗教的根拠はあります。異端の考え方は生物学的寄生者とは違って,正統的考え方を駆逐し,文化や宗教を滅亡させるほど感染するおそれがあるからです。同性愛が人類を滅亡させるおそれはありませんが,同性愛を禁止する文化や宗教を滅亡させる可能性はあります。つまり,同性愛排除論者が恐れているのは,生物としての人類の滅亡ではなく,自らが信じる教義の滅亡ではないかと思います。