言語の不備 ー 枠組み(体系)

ふたたびスマリヤン『この本の名は?』について。あるいはブログ記事の情報量は書籍のそれには足元にも及ばぬということ
http://watto.hatenablog.com/entry/2016/03/29/003000

説明が2ページにわたって述べられていますが、それを私なりに一行で要約するなら、ぶっちゃけ小箱の中に何を入れるのも自由で、小箱の銘文は小箱の中身をいかなる意味でも担保するものではない、ということだと考えます。

 上の引用は,スマリヤン『この本の名は?』の問題70についての,wattさんの要約です。
 リンク先にも引用してありますが,問題70は次のとおりです。

【問題70】

 ニューヨークに住むポーシャは銘板の付いた金と銀の小箱のうち一つに、自分の肖像画を入れました。そして求婚者に、肖像画の入っている小箱を選ぶよう求めます。銘板のメッセージは次のとおり。

金の小箱の銘板 : 肖像画はこの小箱の中にない
銀の小箱の銘板 : 二つの銘板のうちちょうど一つだけが真である

 少し推理を働かせれば,肖像画は金の小箱に入っていると結論したくなります。ポーシャの求婚者もそう答えました。ところが,なんと肖像画は銀の小箱に入っていました。しかし,ポーシャは嘘など付いていないと言います。この状況のwattさんによる要約は至極明快ですが,勝手ながら少し補足します。

 「小箱の銘文は小箱の中身をいかなる意味でも担保するものではない」のは,出題者のポーシャが真偽に付いての情報やその関係を示していないからです。つまり,問題の枠組み次第で担保される内容は変わります。言うまでもなく,小箱の銘文が真実であるとは,出題者のポーシャは担保していません。ただ,それは問題70と一見同じに見える問題69bも同じです。ところが,こちらは,銀の小箱に肖像画があれば,ポーシャは嘘を付いたことになります。気づきにくいように巧妙に書かれていますが,問題69bでは担保され,問題70では担保されていないことがあるのです。それは何か。問題69bは次の通り。

【問題69b】

 ポーシャは「小箱はチェリーニかベリーニのどちらかが作ったもので,ベリーニ作の小箱の銘板は必ず真であり,チェリーニ作の小箱の銘板は必ず偽である」と説明し,肖像画の入っている小箱を選ぶよう求めます。

金の小箱の銘板 : 肖像画はこの小箱の中にない
銀の小箱の銘板 : 二つの小箱のうちちょうど一つだけがベリーニの作だ

 問題69bで担保されていて,問題70で担保されていないのは,「銘板は真か偽のどちらかである」です。問題69bでは,ポーシャは小箱はベリーニ(真の銘板)かチェリーニ(偽の銘板)が作ったと言っているので,真か偽のどちらかしかありえません。一方の問題70では,銘板は真か偽のどちらかであるとは言っていません。このことは,矛盾を許すという意味では有りません。矛盾を許せば何でも有りの破綻した枠組みになり,問題が成立しません。肖像画が銀の小箱に入っている場合,銀の小箱の銘板が真と仮定しても,偽と仮定しても矛盾が生じますが,どちらでもないと仮定すれば矛盾は生じません。だからどちらでもないのです。

 論理体系の枠組みの中には,真の文も偽の文も含まれることが大きな特徴で,真の現象しか含まない現実の物理世界の枠組みとの大きな違いです。偽の文があれば何でも証明できて破綻するかというと,そうではなく,偽の仮定から証明されることは偽となりますから,安泰です。矛盾とは,文Aを真と仮定すれば,文Aが偽となることです。矛盾は許されませんから,この様な場合「文Aは真である」は偽です(背理法)。しかし「文Aは偽である」とは限りません。偽と言うためには,文が真か偽のどちらかでしかありえないことが必要ですが,そうすると今度は,文Aが偽であることから,文Aが真であることも導かれて矛盾します。従って「文は真か偽のどちらかである」は偽であり,「銀の小箱の銘板は真でも偽でもない」となります。これでめでたく矛盾は生じません。

 「真でも偽でもない」などと言う分けの分からないものは認められないと納得しない人もあるかと思います。別に認めなくてもいいのです。そういう立場も有り得るとおもいます。その立場では銀の銘板に書かれていることは「文」と認めなければ良いのです。ただし,その場合の「文」の定義は「真でも偽でもない文」に負けず劣らず認めがたく,かつややこしくなりそうです。私にはどのような定義になるか分かりません。

 なお,「真でも偽でもない」を「真偽不明」と呼ぶと,「真か偽であるか情報不足でどちらか分からない」ことと混同しますので注意が必要だと思います。真と仮定しても,偽と仮定しても矛盾が生じないことに限り「真偽不明」と呼んだ方が良いと思います。

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 さて,ここからはあやふやな私の推測を述べてみます。

 問題69bでは,「ベリーニの銘板は真で,チェリーニの銘板は偽であり,そのどちらかである」という真偽とその関係に関する情報は,出題者であるポーシャが示しています。それと,二つの小箱があるという物理世界の状況説明が組み合わされて問題の枠組みを構成しています。仮に問題69bで銀の小箱に肖像画が入っていた場合,ポーシャが嘘を付いたということになり,この問題の枠組みは破綻します。問題が破綻したので,銀の小箱の銘板の真偽は不明ですが,現実世界の小箱の存在には何ら影響しません。破綻したのはポーシャの説明や銘板のメッセージで,それは無意味になってしまいましたが,小箱は存在しています。現実問題は大抵このようなものです。

 それに対して問題70では銘板に真偽に関する情報があります。この場合に「銘板の記述は真か偽のいずれかしかあり得ない」とあなたが考え,銀の小箱に肖像画が入っていたとしたら,どのように解釈すればよいでしょうか。ポーシャが嘘を付いたということはできません。なぜなら,「真か偽しかあり得ない」というのはあなたの考えであって,ポーシャはそう言っていません。銘板が嘘を付いたと言うこともできません。矛盾して破綻したのはあなたの回答です。この場合,枠組みを決めているのは,ポーシャだけではなく,銘板の文も係わっています。これが,「それ自身の真偽値を参照する文の真偽値に関する問題」つまり自己参照(言及)につながり,「現代論理学の繊細で根源的な側面」ということかなとよく分からないながらも思います。つながる先はゲーデルの定理ですが,私は理解していませんので,確かなことは言えません。

 日常言語は,問題69bのような状況で使うようにできているような気がします。小箱の状態や作者は誰であるという物理世界の記述をするためです。物理世界の枠組みの外部にいるポーシャが言語を使って記述しています。その記述の中に真偽に関する言及があって,それが嘘だったとしても,小箱という物理世界には影響しません。

 しかし,現実には問題70のような状況はいくらでもあり得ます。外部の物事を記述する為のものとして発達してきたにしろ,言語は形式的には言語自身に関する内容を含んでいます。文法や言葉の定義も言語で記述されているからです。言語の外にはポーシャのような文法を規定する枠組みはありません。そのため,ある種の不備を感じることがあります。例えば,辞書の循環定義の問題です。数学的な体系では,定義をしない語があり,実は言語も実態上は同じだと思うのですが,公式の辞書は循環定義で処理しています。一方で,言語本来の用途,つまり言語の枠組みの外の物事をモデル化する上においては,大きな不備を感じる事はありません。例えば物理世界には,「嘘でもなく真実でもない」ことは存在しません。

 もともと,自分自身を記述するようにはできていない言語ですが,指示語を使えば形式的には簡単にできてしまいます。しかし,それは適用範囲外なので,パラドックスという不備が生じてしまうのではないでしょうか。不備を解消した記述言語を作ることも可能ですが,そうすると,「嘘でもなく真実でもない」という感覚的に受け入れにくい概念がでてくるのかなとか思ったりします。